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achaの言いたい放題
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昨日のタイトルが、死に方。心が元気だったら、生き方ってしたかも知れない。同じ事でも、自分の心や身体が元気な時とそうでないときは、いろんなものの感じ方が、違う。心の持ちようとは良く言ったものです。
時に、何もかもが嫌になる。自分を取り巻いているすべてが嫌になり、心が沈む。しがらみから逃げたくなる。上手くいかないことはすべて自分が悪い。と思いこむ。自分の存在さえも拒否したくなる。なんで私は存在しているんだろう。存在している意味は何なんだろうか。軽うつかな。と思う。
こんな時に他人からも否定されるとますます心が沈み、ため息が出る。本当はその人は私のことなど否定していないのに、そう感じてしまう私がいるのです。こんな晩は、月を見ていると吸い込まれそうになり思わず月に向かって一歩踏み出してしまいそになる。
この時の回避方法。今は心得ているので随分といいが、それを習得する前までは泥沼だった。気持ちの切り替えが出来ないままに、深みにはまっていく。しかし、今でも思いも掛けない強い力で引っ張られるように、奈落の底へと落ちる場合も有る。
気分だけだったのが、身体の変調にまでなり、疲れて言いようもない不調感。自分ではコントロールは出来なくなる。それは、後から思えば、心情的に無理をしたり、我慢をしていた場合が多い。不幸なことにそうなるまで、我慢していたことにも気付かない私なのである。
最初の対処が大事で、来たなと思ったら手早い手当が大切。回避方法は、とにかく日常と違うことをする。いやいや会社にいてもダメになるので、とにかくいまのいやな環境から離れること。
危険信号を感じ、それが軽い場合は、大きく深呼吸をする。ストレッチをする。指をマッサージする。全身に力を入れて、力む。そして、一瞬にして力を抜く。こんな事を椅子に座ってやるだけでも違う。
人間誰でも躁鬱の時が有るという。今日は出かけたくない、今日は人と会いたくない。今日は気力がない。今日はなんだかダメだ。心が重い。そんなとき有りませんか。逆に今日はなんだかハイだなぁ。なんだか心が軽いなぁ。ってとき有りませんか。
でも、それはいつの間にか消えているんですよね。一瞬で終わる場合も有れば、一日で終わる場合もある。そして、数日続く場合もある。ほとんどの人が一時を過ごせば終わるようです。
私は半年に一度くらい重い不調の時が来ます。よく言う季節の変わり目ですね。金木犀の花、沈丁花の花が咲く頃です。その時に仕事の失敗や人間関係の行き詰まりが重なると、症状も重傷になります。やる気、気力が無くなる。 気の持ちようなんですが、その時は出来ないのですね。危険信号がいろいろ出ていたはずなのに気付かないのです。この秋もそうでした。
ある日、心が重かった。朝起きたら、会社に行きたくなかった。会社に行きたくないことは結構多くある。でも、今回は違うなぁ。来てしまったなぁ。さぁて、どうするか。やっぱり、仕事を休む。それしかないなぁ。と。しかし、突然には休みにくい。午後半休しよう。今日なら出来る。と思っただけで、気持ちが和らぐ。会社に行って、午後半休の届けを出して、さて、午後は何をしよう。と考えていると心が少し晴れてくる。
とにかく、会社を出てどこに行こうか。そうだ、夏休みに機会を逃した、「千と千尋」だ。開演の時間に合えば見ようと映画館に行く。ラッキーなことに予告が始まったばかり。
映画を見て、喫茶店に入り、お茶とケーキ。それにしてもどうしてスタバはあんなに混んでいるのだろうか。今日も座れなかった。
町をブラブラと歩くと、見慣れぬ手芸店。そういえば、最近編み物もパッチワークもやっていないなぁ。何で時間が無いんだろう。もう少し余裕の時間を持たなくちゃ。などと考えながら、店の中を徘徊して毛糸を見たり、布を見たりしていると創作意欲が湧いてくる。なんか心も浮いてくる。機織り機の前でしばらく止まって見る。前からこの卓上の機織り機が欲しかったのよね。これでショールを作ってみたいなぁ。ベストも出来るなぁ。といろいろと想像を張り巡らす。でも、今は出来ないなぁ。置いておく場所もないしなぁ。田舎暮らしが実現できたら、出来るかなぁ。 などと考えながら、あきらめてその場を離れる。
夕方の食品売場を、あちらこちらとのぞいてみる。お腹が減っているので、何でも食べたいが、何を食べたいのか決心が付かず、人間ウォッチングだけをして何も買わずに出てくる。
こんな事をして、自分のためだけに時間を使う。ほんの半日フラフラしていただけで、ずいぶんと心が晴れる。これが無理して会社にいてもただただ心が重くなって、不調感は大きくなる。家に帰ってこもってもダメ。とにかく歩いたり、他の空気を吸うことが大事。気分転換って大切なもののですね。
さぁて、これで上手くいけば、また明日からがんばれる。
どんな風に死ぬか。人間一度は死ぬ。死ぬときまで元気でいたい。自分の運命に任せて死を迎える。自然に死にたい。と考えるようになったのは何時頃からか。
中学校の頃から死について考えていました。最初は死ぬことが怖くて、人間誰でも死ぬということを知った小学校の4年くらいの時は、身体がパニックを起こしたものです。
数度の入院体験で人間の死に付いていろいろ考えました。息をしているだけが、生きているというのか。その呼吸さえも、機械でコントロールされる場合もある。違う。絶対に違う。あんな姿で生きていて楽しいわけがない。人間、自分で食べて、自分で歩いて、自分でいろいろ考えられる。それが生きているって事じゃないのか。
健康に自信がなかった私は、自分の人生はけして長いものではないと確信していました。でも、人間は生まれたときから死に向かって進んでいくのだ。日々時間を過ごすことは死に向かっているのだ。と気付いたときに、自分のやりたいことはやろう。後悔の無い人生をすごそうと思ったのです。そして、天命の下るときに、満足して天に昇りたい。と。
なかなか、思い通りにならないのも人生で、性格もすぐに変わる訳じゃないから、やりたい放題、思いのままに生きることは出来ない。でも、そう思って生きるだけでも違うと思うのです。今の平均寿命まで生きられる。なんて思っていたら、最後の時に後悔ばかりになってしまうと思います。もし、平均寿命以上に生きることが出来たら、それは、それで幸せなことです。
3年ほど前までは、一番怖い病気はガンだと思っていました。だから集団検診も積極的に受けていました。ガンが怖いのは、掛かったら絶対に死ぬからでしょうか。でも、どんな病気だって死ぬことは有るんですよね。
風邪をこじらせて死ぬ人もいるし、肺炎で糖尿病で。何にしても、人間はいつかは死ぬのです。突然の交通事故や心臓病でも死ぬんですよね。今の世の中一寸先は闇だったりするんですね。なのにどうしてガンという病気は怖いのでしょうか。苦しいことや、痛いからか。
でも、最近はガンでもいいなぁ。と思うようになりました。余命宣告される病気ってガンだけ何じゃないかな。自分の人生の決算をさせて死ぬことが出来るのはいいことのような気がする。痛みさえ取れれば、延命治療も化学治療もしたくない。薬は手助け。
それこそ、自分の命を天に任せたいと思う。病院のベットで余命の5ヶ月を過ごすより、時間が短くなってもいいから、自分の好きなこと、やりたいことをして、自分の残された時間をしっかりと使ってから逝きたい。
実際に目の前で、余命宣告されたらどうなるのか。って、自分でもよく分からない。藁をもすがる思いで、いろいろ医療機関を巡ってしまうだろうか。
最近の報告では、すべての治療を止めても余命宣告以上の時間を生きている人もいるという。自分が生きようとする気持ちが大切だという。
そのためにも今の私の健康法が有るのだ。今までは、病気になったら医者に行けばいい、薬を飲めばいい。今はいい薬が有るから、医術が進んだから大丈夫。と思っていました。
でも、今は違います。病気にならないように生活をして、心から元気に過ごしたい。と思っています。
自らが持っている治癒能力を信じて、そしてそれがよく働くような生活をする。そして、後悔せずってのは、どんな人生を送ったとしても無理だとは思うので、せめて精一杯生きて、笑って死にたい。
どこかに出かけると、ふとどこからともなく「私を連れて帰ってよ。」と言われている気がする。見回すと、陳列棚に座った招きねこだったりする。そうか、あんたかぃ。うちに来たいのか。と私は買って連れて帰るのです。
招き猫に一番最初に声を掛けられたのは、7年程前。それからは自分でも意識して探してきした。今では、玄関に小さい招き猫がたくさん集まっています。ミミズクやカエル、天使の卵にも声を掛けられました。
そして、どこかに出かけたり、どこかの道を歩いていると、どうもそこを通りたくないと思うところに出会うのです。何がなんだか分からないけど、そこにはいたくないのです。誰かの家に行っても感じるときが有ります。それはなんだか分からないのですが。
写真を撮るのが趣味の一つ。どんなに富士山がきれいに見えるところでも、どうしてもそこからは撮りたくない。こんなにきれいに見える場所なのにと、心での葛藤。でも、居たくないものは、居たくない。とその場を立ち去り他を探します。
ある日、ある時、ある場所に行ったら、通りたくない場所に出会った。でも、戻るには大変だし、そこを通り抜けないとならない。仕方ないので、駆け抜けた。あとで調べてみたら、そこは戦時中にたくさんの人が亡くなった場所だと言う。こんな事を感じるのは私だけ?私になにかの力が多少の有るのかな。
私は温泉が好きである。泉質やら効能やらにはあまり興味がない。短気、せっかちの私は温泉に入るときくらいは、のんびり、ぼーっとしたいのである。
けっこう若いときから温泉が好きで、みんながペンションだなんだと騒いでいるときから、温泉旅館にしようよ。といっていた。なぁに、ばば臭いこと言ってんのよ。とみんなに言われたけど、その連中も今はしっかり温泉に行っている。
初めて露天風呂に入ったときの、気持ちよさは忘れられない。髪の毛の中を風が通り抜ける心地よさ。空は青く、木々は緑。木洩れ日が気持ちよい。浮き世の垢が落ちていく。
しかし、しかしである。この私のリラックスタイムを壊す事が多々起きるのである。大騒ぎして脱衣室で脱ぎ、大胆にプロポーションをほこるようにタオルで身体を隠すことなく歩き、そのまま湯船に直行。おいおい。そのまま入るのかい。プールに入るときだって、なにかするだろうに。
掛け湯をして。身体を洗ってから。とそこかしこに張ってあるじゃないかい。自分ちのお風呂にもそうやって入るのかい。親から教わらなかったのかい。テレビのようにバスタオルを巻いて入らないだけいいのかい。
掛け湯は身体を流すためだけじゃなくて、これからお湯に入る身体の準備でも有るんだよ。そのまま直行したら、お湯を熱く感じるでしょう。掛け湯で熱さにも、温泉にも慣れて欲しいのよ。そうすれば、自分たちだけでうめることも無いでしょう。そのままの体感でそんなに水を入れたら、ぬるくなってしまうのよ。
身体洗うときも隣の人にもう少し気を使ってね。あなたのシャワーが私に掛かるのよ。おまけに最後に立ってシャワーを浴びないでね。ひとりのお風呂じゃないのだから。
どうして、脱衣所から、湯船に直行なのか。せめてせめて掛け湯をして欲しい。これは、テレビ番組の影響なのだろうか。テレビ番組は脱衣室からバスタオルを巻いて出てきて、そのまま、湯船に。そりゃ、掛け湯や前を洗っている所は映像には出来まい。だけど、だけど、温泉に入る最低のエチケットはどうにか教えて欲しいものだ。テレビの影響は大きいのだから。
しかし、最近はカランの間に仕切のあるところが増えてきましたね。みんな隣の人のシャワーに迷惑していたのでしょうか。迷惑を掛けないように気をつけるのではなく、迷惑が掛からないように注意する世の中なのですね。
路上生活のおじさんが、雨が降ったり、寒かったりすると、地下道に入ってくる。一晩のつもりが、暖かいので数日になるのか。しばらくするとなぜかみんないなくなる。そして、また雪や雨になると降りてくる。
この繰り返しのなかで、このおじさん達のすぐ横でジベタリアン、もしくは寝ころんでいる高校生がいる。遠目に見ていると、なんの違和感も無く、高校生とおじさん達が同じような格好で、自分の前に何か食べ物を置いている。非常に不思議な世界だ。
そして、自分達が、ぺっぺといつか唾を吐いたところに、座れるのはどうして。その汚いお尻のまま、電車に乗り、家に帰り、もしかしてそのお尻のまま、ダイニングの椅子に座ったり、ベットに座ったりするのだろうか。するんだろうな。
そのズタズタのズボンの裾で掃除したゴミもご家庭にお持ち帰りですよね。その袈裟のようなスカートについた埃もお持ち帰りですよね。そして、その親たちは抗菌グッズにはまっているのだろうか。不思議だ。
私の前を散歩をしている犬が歩いている。可愛いヨークシャー。お尻フリフリ歩いている。と、突然立ち止まって腰を落としてジャァー。あらら、もう少しで踏んでしまうところだった。
しかし、犬ってこんな風に突然、それも道の真ん中にジャーってするもの?子犬ならやるけど。その様子から見たらメスの犬。それにしたって、周りの臭いをかいだり、道の端の草とか、なんか犬なりの行動が有るのでは。と思うのです。毎日、通る歩道の真ん中に水たまりや水跡が有るのは、犬のオシッコだったのね。
大の方も、道の真ん中で踏ん張るのですね。飼い主がさっと、新聞紙などを敷いて、大をキャッチする。後処理が簡単なので、飼い主思いなのでしょうか。
私が飼っていた犬は、大をするときは大変でした。草むらをクンクン、クンクン、肛門様はもういつでも飛び出す準備OKなのにクンクン、なかなかいい場所が見付からないらしい。納得のいく場所を見つけるまでクンクンしてました。そして、やっとここぞと思う場所に出会う。私と目が合う。止めてしまう。どうも犬でもその姿を見られるのが恥ずかしいらしい。でも、今の犬はそんなことは無いらしい。誰が歩いていようが、見ていようがしているような気がする。しかし、今は草むらは無いですね。
グイグイと引っ張る犬もほとんど見ない。私なんて、いつもグイグイやられてた。恥ずかしいくらいにグイグイ。しつけが出来ていないと言えば、それまでなのですが、何度やってもダメでした。そんなに急いでどこへ行く。
今の犬は、みんな優雅に歩いている。しっぽをピンとして、まるでドックショーで歩いている犬を見ているようだ。たまにグイグイしている犬を見ると、なんか親しみを感じる。
中には歩くのが嫌いな犬がいる。少し歩いては、飼い主を見上げている。だっこして欲しいのだという。犬も運動を嫌うのか。糖尿だ、肥満だと人間が困っている病気にもなるという。犬のルームランナーを見たときはびっくり。番犬だった犬が、子供同様になり、いや子供以上の存在になって、かわいがられて、今時の犬はお犬様なのですね。
毎日更新したいと思って、やりだしたものの、書く事ってエネルギーがいりますね。
ネタはいろいろ書きためてはいるものの、それを読み返すと、なんか意味不明で、直したり、いろいろ手を加えたりしていると、打つのもそんなに早くない私は時間も掛かるのです。
早くないと言えば、私はカナ打ちなんですが、会社のマシーンはデフォルトがローマ字入力。で、まだひとりひとりにマシーンが無くて、共用パソコンとして存在しているパソコンを使うときに、カナ文字に変えて作業をするのですが、たまにもどし忘れてしまうと、ご長老が「だれだ。こんなことしたの。どうやったらちゃんと文字が出るんだ。」と、叫ぶのを聞くに耐えかねて、ローマ字入力にと思ったのですが、それこそ雨だれ。長い入力の時はカナにもどし、短いのはローマ字。と切り替えてやっていました。
しかし、ここ2年ほどでめっきり上達。それは、携帯メールをポケベル入力で打つようになったことが多く影響していると思います。「あ」を打つときに「ああ」になったりして。
で、会社ではローマ字、家ではカナ打ちと入力バイリンガルです。休み明けは会社で仕事をすると、一瞬指が遊びますが、すぐに慣れます。車のマニュアルギアと オートマチックを乗り換えたときの左足のためらいのようです。で、最近は個人にもパソコンを与えてもらったのですが、せっかく覚えたローマ字と言うことで、会社ではローマ字でやっています。ちゅうちょとか、ほんじゃなんて、打つときに指が止まりますが、慣れなんですね。なぜか、家ではローマ字にしたいとは思わず、しっかり指が切り替えを覚えていて無意識に打っているのです。自分でも不思議です。
さて、話を元に戻しまして、何回も、読み直して、推敲もして、アップしたのに、アップしてから読み直すと、やっぱり直っていないところがあったりして。まぁ、いいっか。と思う私です。
しかし、ここにエネルギーを使っていると、他のページに回すエネルギーが無くなってしまうことに気付きました。
故に、ここもしばらくぽちぽちやっていくことにします。#もっと文章が上手くなるといいのになぁ。
また、中学生が殺人をした。注意されたことを恨んでの仕返し。自分たちが図書館で騒いでいたのを注意されたという。それで、人数を集めて1時間半の暴行。角材などでなぐるける。保護者に連れられて自首をしたという。起こしたことを反省していると言う。
これだけ長い間暴行を続けたら、人間は死ぬと言うことに気付かなかったんだろうか。そのときはおもしろくてやっていたんだろうか。殴られたりしないで育ってきたので、痛みがわからないのか。それだけ人を痛めつけても、その後に平然といつもの生活に戻れるのは、どういうことなんだろうか。
ニュースでも会社でも犯行をした子供達を責めているが、確かに罪を犯したのはあの子ら。罪を憎んで人を憎まず。ではないが、彼らの生きてきた環境はどのようなものだったのか。その環境は大人が作ってきたわけで、親の影響は大きい。
しつけとか、小言とかそういうものではなく、生きていく環境。生活そのものの影響は大だとおもう。こういう事件が起きるたびに、彼らの食生活はどのようなものなのかと考えてしまう。今は、多くの母親も働いているので、出来合のものやインスタント食品ばかりを食べているのだろうか。総菜が豊富で、便利ですもの。
親に食事を作ってもらっていたんだろうか。楽しい夕食は過ごしていたんだろうか。おやつには何を食べていたのか。お昼は何を食べていたのだろうか。清涼飲料水はどのくらい飲んでいたのか。親が食事時に清涼飲料水を飲んでいる家庭もある。当然子供も飲む。それはどんな影響が有るんだろうか。
食事と脳の関係、食品添加物が身体、心に及ぼす影響。食べることの大切さ。に気付いているのだろうか。ただ、お腹が空いたから満たすだけの食事が多いように思う。食べれば、お腹に入れば同じじゃないか。って、それは違うのだけど、なかなか気付いてもらえない。楽しく食べる。これが大切なんだけどなぁ。たとえ出来合のものを食べても。
大人に注意をされて、それを逆恨みする。大人と子供の区別がない。それは、そのように育てられてきたのか。子供も甘やかせれば、大人より偉いと思ってしまう子供もいるだろう。犬だって甘やかして育てるとある日突然飼い主に歯向かう。自分の方が偉いと思ってしまうらしい。
子供の間違いは正してやるもの。しかし、その大人さえも、正しい判断が出来なくなっている人もいる。大人さえも、食べるもので影響を受けていたとすれば、子供の方がその影響はもっと大きいはずだ。大人が子供を怖がっていて、どうなってしまうんだ日本。
何かがおかしい世の中。政治の世界も、社会も、企業も何かおかしい。どこかでだれかがなんとかしなければ、日本は破滅する。一度、やっぱり今の食事を考えなければならないと思う。
夕方のスーパーのレジは混んでいる。どこの列が早く進みそうかと見渡して、短気の私は並ぶのである。同じように並んでいても私の方が先にレジを通過すると、なんだか得した気分になるのは私だけでしょうか。
しかし、予想に反してどんくさい人に当たってしまったり、超新人だったりすると、「あーあ、予想が外れた。」と思い、急いでいる訳じゃないからと自分をなだめるのである。
以前、レジの人にもノルマが有るような事を聞いたのですが、そのときは、どうやって自分のレジにお客さんを呼ぶのかと不思議に思っていたのですが、何のことはない、レジ作業を早くすれば、同じ時間でレジをこなす客数は増えるのですね。
昨今は、「見習い中」などの腕章をつけているので、並ぶ前からチェックできるので私はうれしいのです。見習い中でも、てきぱきとレジ作業をこなしていく学生アルバイトもいるのであるが、なんとも、なんとも、私が手伝おうかって思う人もいます。
私の行くスーパーのアルバイトは、なぜか男子高校生のアルバイトも多くいてなんとなく、可愛い子だな。なんて所の列にフラフラと並んだりして・・・
今日はいつのもスーパーではなく、初めてのスーパー。どこのレジも長蛇の列。私が買うのは醤油だけ。並んでいる人は、どうしてそんなに買うのだろうか。と思うくらい二つのかごに品物が満載の人ばかり。レジを見渡すと、二人組のレジが一箇所。これだこれだ。二人組の所は並びが長くても他より早いのよ。しかし、一人は見習いの腕章をつけた、か弱そうな男子高校生。まぁ、いいっか。と並ぶ。
レジの周りのものを見ながら並んでいた私。しばらくしても全然進まない。なんで。と思ってそのレジ台をみてみると、こんな事があるのぉ?
ピコピコと商品をポスレジに打って金額を告げる。普通はそのまま前方のレジでお客がお金を払い、終わる。すぐにそのレジでは次の人の会計をする。たまに、ピコピコレジの方が早くて、会計レジに溜まってしまう場合もあって、お互いが調整しながらやって行く、二人は手を休めることなく次々に客をさばいていくのが、二人レジのいいところのはずである。
しかし、しかしである、このレジは違った。ピコピコとする人は前の人の会計が終わるまで、次の人のピコピコを始めないのである。何を思うか、お客さんが会計を終わるのを見ているのである。会計レジはピコピコが終わるまで手持ちぶさた。二人で一人のレジであった。ひとりのレジより時間が掛かっているように思う。そのレジスターは同時には動かないのか!
のどの下まで「なんですぐにやらないのですか。」って、出ていた私だが、声に出すことは出来なかった。ここのスーパーはそれが当たり前だったら困るもの。しかし、後ろのおばちゃまも不思議そうには見ていた。こんなレジのやり方は、初めて見たわ。
並び変わるともっと遅いので、仕方なくそこに並んでやっと、私の番。代金を払う私は、細かいお金を財布から出すのに時間がかかってしまった。なんかうしろのおばちゃんの視線を感じる。悪いことをしているような気になってしまった。私がわるいの?
私は温泉が好きです。かけ湯して、軽く身体を洗って、湯船にのんびりと浸かる。景色でも見ながらぽーっと過ごすこの時が何よりも好きである。浮き世の嫌なことは忘れてしまう。
しかし、ふとカランの方を見ると、そこは泡泡泡。シャンプーの泡、ボディーソープの泡。どうしてこんなにアロエのボディーソープが充満したんだろう。
何時からだろう。こんな山奥の温泉場から排出されるこの泡はどこへ行くのだろうか。一昔前ならば、温泉では石鹸を使わなかったし、環境保護からも使わない所も有ったはずだ。この施設には浄化槽が有るのか、それとも下水が完備されているのか。それとも垂れ流し・・・
今は、どこにでも合成シャンプーが置かれている。石鹸の姿を見なくなったなぁ。
そういえば、尾瀬のお風呂は石鹸も使ってはいけなかったなぁ。湯船につかりながら、シャンプーの泡の行方を考える私でありました。そんなことに疑問を感じるのは私だけなんだろうか。