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achaの言いたい放題
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白杖の人が断歩道を渡ろうとしているとき、車椅子の人が自分の車に乗ろうとしているとき。なにか手助けしたいと思いながら、どうやって声を掛けたらいいんだろう。どうすればいいんだろうと思いながら結局何も出来ないで、無事に横断歩道を渡ったことを遠くから確認する私です。
ある日、ひとりで電車に乗っていると、ほとんど満席だったその車両にひとりの盲目の女性が、誰かに連れられてやって来ました。そして、私の隣の席に座ったのです。その人は空席を探して欲しいと頼んだようで、お礼を言っていました。
しばらくして、次は横浜ですか。と聞かれたのです。はいそうです。と答えた私の心の中は少し複雑でした。この人も横浜で下りるのか。私はどうしたらいいんだろう。
電車は横浜に着いてしまった。やはり隣の女性も立ち上がった。私は頭で考えることなく、どちらに降りますか。と聞いていた。彼女は相鉄線に乗るのです。と言う。それでは、私も京急ですから同じ方向なのでご一緒しましょう。と言っていたのです。ありがとうございます。と歩き始めたのでした。
彼女は杖を右手に持ち、私の右腕をつかみました。そうだそうだ、確か案内をする場合は、手を取るのではなく、相手がこちらの腕をつかむことで安定する。ってどこかで習ったなぁ。階段を下り、通路を歩く。初めて盲目の人を案内するので、どうしたものかと思いながらも、階段終わりです。坂です。一段上がってます。と案内をしたのでした。彼女はお急ぎで無いのですか、とこちらの気遣いをしていました。
それにしても、私より横浜駅の構造を知っていたのには、驚きました。
相鉄の階段の左端で別れました。何で、改札までご一緒しなかったのか。何で切符を買うのを手伝わなかったのかと、京急の通路を歩いてい後悔したのでした。でも、私の初めてのボランティア。いや、ボランティアなんて大それた物では無いけど、次はもっと出来るようになっていたい。これが私の最初の一歩になるようにしたい。と思ったのです。
大丈夫です。って断られたらどうしよう。逆に迷惑だったらどうしよう。押しつけがましくなく、なにげにさりげなくお手伝いをするにはどうしたらいいんだろう。といつも頭の中で考えていました。この時、頭より先に行動に出たのは、相手との距離に考える時間がなかったせいでしょう。
電車で席を譲るときも、譲られた人が、私ってそんなに年寄りに見えるのかしら。って譲り方をしてはだめなことを知りました。目の前に妊婦や私よりも年上の人が立った場合は、言葉は出さずに自分が立ち上がり、ジェスチャーでどうぞ。とすると、相手もなにも考えずに座るようです。それが、自分が立つ前に、言葉でどうぞ。と発すると、いいです。って言われる場合が多いです。
空いてる席に誘導するときも、言葉は掛けずに、空いている席をお知らせすると座ってもらえます。
声を出すとなぜ、拒まれるのだろう。と思っていたら、声を掛けると、頭の回路が働いて、考える時間が出来て、一瞬のうちにいろいろと巡って、いいです。と言うみたいです。本当に座りたいと思っている人は、頭で考えても身体で座りたいと思っているので、座るんですね。きっと。
ゆずって断られるのは、なんか恥ずかしいと思うのはわたしだけ?何時までもお礼を言われるのも恥ずかしいですね。下りるそぶりをして、その場から離れます。
もっと気軽に、もっと普通にお手伝いが出来るといいなぁ。といつも思っていますが、なかなか上手くいかない。されげなく出きる人の事をこっそり盗み見ている私です。
私は24才の誕生日の夜まで、自分はお酒が飲めないものだと思っていました。事実それまでは、宴会時の乾杯のビール一口で顔は赤くなり鼻はつまり頭までも痛くなる。カクテルやフィズ系でも、一口飲んでの反応は同じ。ビールお酒はお猪口一杯でも、しこたま飲んだ顔になってしまう。そして、そんなに飲んでいないのに、気持ち悪くなるのです。
アップルパイに入っている洋酒にも反応する。ウィスキーポンポンなんて、とーんでもでもありません。って感じ。お酒が飲める人には分からないかも知れないけど、お菓子にはいろいろな洋酒が入っているのですね。これお酒が入っている。と言っても信じてもらえないのです。
フルーツケーキ、アップルパイ、サバラン、なぜかモンブラン。お酒が入っているのですよね。アップルパイ自体は好きなんです。だから、匂いをかいでからお酒が入っていない場合は食べました。お酒と言っても今思えば、リキュールや、ライム酒で、ホンの香り付け程度に入っているだけなのにね。今は全然、大丈夫です。
24才の誕生日の晩に飲んだのは、ウィスキーの水割り。私はお酒はダメなに、当時の同僚と夕飯と証してなじみのお好み焼き屋に週に何度も行っていました。ご飯を食べて飲みもしないのにカラオケを歌い、ご機嫌になって帰宅したのです。飲まないのに飲み屋が好き。って所でしょうか。当時は飲む楽しさも知らないので、飲まなくてもその場になじめたのですね。今は、考えられないですね。酔っぱらいの中にしらふでいるという、感覚。
店のみんなが祝ってくれました。今までの人生の中で忘れられない誕生日。
飲む楽しさを知っている人たちが、飲めない人間がここにいることが不思議であり、可愛そうであったのか。飲む楽しさを教えようとしたのかは、定かではないが、とにかくそんな人たちが私の誕生日の祝いに何かを飲ませたいと思ったらしい。ウィスキーならいいんじゃない。自分で濃さを調節できるし。と。ママが言いました。
そして、コップに数ミリのウィスキーを入れてもらい、ほとんど色の付いていない水割りで乾杯をしたのでした。これがなかなか美味しい。顔が赤くなるのは同じなんですが、頭も痛くないし、鼻も詰まらない。
飲めや歌えやで、夜中まで。お酒を飲みながら歌うことがこんなにも楽しいとは思ってもいなかったのです。ウィスキー白のボトルは3人でほとんどなくなっていました。私がどれだけ飲んだかは定かでは有りませんが、あとの二人がほとんど飲んだのだと思われます。
それからは、週末になるとお酒を飲むという、習慣になりました。とりあえずビールってのはなく、すぐに水割りです。それも、白一本槍。他のウィスキーは飲めないのです。とにかく白しか飲めない。初めのうちは人のボトルを飲んでいたのが、自分でボトルを入れるようになり、ひとりでも行くようになったのです。そして、ウィスキーの濃さは普通の人並みになっていきました。 店のマスター、ママとも遊びに行ったり、楽しく過ごした時期でした。一気のみをして、トイレから離れなれなくなったときも有りました。若かったなぁ。当時の私の限度は水割りは8杯。それも、ゆっくり飲んで。でも、ビールはやはり飲めなかったですね。
そして、月日がたちました。お酒は飲む習慣から遠ざかると飲めなくなるものですね。職場を変わり、車で通うようになってからは、飲む機会も極端に減りました。そして、ビールは飲めないなんて言って、わがままも言えない歳になって、少しだけだし、まぁいいっか。と、その場がビールならばビールと飲んでいるうちに、ビールも飲めるようになりました。習慣って恐ろしい。それでも、体調がよくないと350ミリ缶が飲みきれない。250が調度よかったですね。そんなこなんなとしているうちに、今では350缶は当たり前になってきました。顔は相変わらず、人一倍飲んだ色になのますが。
昔の飲み仲間に合うと、ビールはダメだったよな。と言ってくれるときはなんかうれしいですね。覚えてくれたのね。って感じで。
今は、水割りはほとんど飲みませんね。たまに飲んでも美味しくないですね。どうしてでしょう。生ビールはよく飲みます。なぜか瓶ビールより飲めるのです。それと、瓶ビールのようにつぎ足しをされないのがいいですね。自分でどれだけ飲んだか分かるので。
数えながら飲むなんて、気持ちよく酔えない。って思いますよね。まさにそうです。体調のいいときは数えないのですね。あんまりよくないときは、自然と数えているようです。
飲み過ぎて、大変なことに何度かなっているので、セーブするようです。そして、セーブは量だけではなく種類にもよります。飲むのは2種類まで。それも組み合わせに寄ります。ビールと酎ハイやサワーはいいのですが、日本酒はダメです。ワインもだめな方ですね。気持ち悪くなってきます。混ぜなくても、日本酒は怖いです。一杯ときめています。そして、3種以上のチャンポンは厳禁です。気持ちよく酔うより先に、気持ち悪くなってその場で寝てしまいます。
顔が赤くなる人は、お酒に弱いのだからあまりのまない方がいいと言いますね。少しずつ付き合い程度に飲みたい。と飲めない頃に思っていた飲み方になってきました。強くはないので、いかに楽しく飲むかが勝負ですね。
ワインがブームしたり、カクテルが流行ったり、お酒の世界にも流行が有るんですよね。今は、何が飲めない何がダメ。って事はないです、たしなむ程度に飲めるのは、食事も美味しくするのですよね。楽しい食事でもあります。
昨日は、入社当時にお世話になった人の、定年退職のお祝いに出席し、あまりに懐かしい顔が揃っていたので、知らず知らずのうちに、勧められるままにビールと日本酒を飲んでしまいました。このチャンポンはマズイよな。でも、美味しい日本酒だな。なんてやっているうちに、自分の限度を超していました。気持ちも悪くなってフラフラしながら、帰ってきました。でも、お酒の席って楽しい。
花粉症ではないけど、アレルギー性鼻炎で一年のうち半年は耳鼻科に通っていました。季節の変わり目は当然で、風邪も必ず鼻喉から掛かったのです。
いつも鼻は詰まり、鼻の粘膜は赤く腫れていました。鼻が詰まると酸素が頭に行かなくて、思考力も衰えるんだよ。と耳鼻科の医者が言いました。で、せっせせっせと、耳鼻科に通いました。薬も何種類ももらって。でも、半年も通うのですがら、これは効いていたのでしょうか。
少し暖かくなってくると、花粉症の患者が増えて、待合室では座るところも無くなってしまうくらいに混みましたね。あまりに患者があふれているので、ドアを開けて、そのまま帰ったことも有ります。
鼻うがいを初めて知ったのは、10年くらい前でしたか、笑っていいとものゲストに坂上二郎氏が出てきて、鼻うがいの話をしたのです。私は、新しいもの好きと思われていますが、そうかも知れないけど、私の直感でこれは行ける。と思った物しか手は出さないのです。
それで、これは行ける。とやってみたのですね。直感は合っていました。鼻がすっきり気持ちいい。やった後は、鼻水が出て来るのです。今までは詰まって出てこなかったのに出て来るんですね。
今では、なぜかここ6年近く耳鼻科にお世話になることは無くなりました。それは、もしかしたら食事が変わったからかもしれません。でも、鼻は元気いっぱい状態ではありません。粘膜が腫れて血がにじんだ鼻汁が出たりもします。
そして、何よりもこの季節。花粉症ではないけど、花粉敏感症では有ります。鼻や喉の粘膜に花粉がピタピタと張り付くのを感じるのです。それで、くしゃみが出たり、鼻水が出たり、目がかゆくなると言う症状は出ませんが、喉が乾きます。
こんな時は、普通に喉のうがいをして、そして鼻うがいです。鼻腔に付いていた花粉はきれいに洗い流されます。
鼻うがいの仕方。
用意する物。ぬるま湯をコップ一杯、塩。
ぬるま湯とは、体温と同じか少し暖かめの温度。体温と同じというのは、飲んだりさわったりして、暖かくも冷たくも無いという温度です。
塩加減は体液と同じ濃さ。1%だなんだって言っても理解が出来ないので、簡単に言えば、鼻水程度の濃さでしょうか。飲んでみて微かな塩味です。
まあ、アバウトにやってみてください。熱ければうめればいいし、辛かればうめればいい。ただし、冷たかったり、塩気を感じないのはダメです。
これを鼻から吸うのです。コップの縁を鼻に直接つけて、口は閉じて鼻から吸う。そして、口から出すのです。
痛そうな気がしますよね。でも、大丈夫です。湯加減、塩加減が自分と同じで有れば痛くないのです。
これをコップ一杯やるのです。
しばらくは鼻が出るかも知れませんが、かんでくださいね。そして、どんどん出してください。
どうかしら、お鼻に合いましたか。
大きく背伸びをしてください。はい、そのままでいいですよ。椅子に座っていても、立ち上がっても、でも、組んでいた足はほどいて、なにげに開いてください。とにかく手を腕を上に上げて、精一杯上に伸びてください。そして、全身に力を入れて「フッ」と力んでください。そして、一瞬に力を抜いてください。腕をおろしながらです。
そして、お腹に手を当てて、身体に入っている空気を全部吐くつもりで息を吐いてください。吸うのではなく、吐くんですよ。お腹の空気を全部出すつもりで、前かがみになってもいいです。
はい、出し終わりましたか。つぎは、ゆっくりゆっくり息を鼻から吸い込んでください。お腹に空気が溜まるように吸い込んでください。お腹に当てた手が押されていますか。吸い終わったら、息を止めて4数えてください。そして、口を小さく開けて少しずつ吐きだしてください。はい、またお腹の空気全部を出してください。そして、また息を吸ってください。これを3回やってみてください。
なんか、すっきりしませんでしたか。はい、それではまたパソコン作業を始めてください。
パソコンに向かっていると、背筋が曲がったりして、肺のあたりが縮こまってきませんか。たまに大きく深呼吸や、身体を伸ばしてみてね。
先日アメリカに移住した同級生がミネアポリスから17年ぶりに一時帰国し合いました。楽しい会でした。帰国したことを本人から聞いたのではなく、地元に住んでいる人間が人づてに聞き、そして、連絡をしてきたのでした。日程に余裕が無かったのに、担任も含めて、15人も集まりました。みんな何をさしおいても彼の顔が見たい。元気でやっている姿を見たい。一言話をしたい。それだけで、仕事の人も終わってから駆けつけました。
会場は同級生の寿司屋。いつもは遅刻してくる人もなぜか早くやってくる。時間が少し過ぎた頃に彼は「おう」と言ってやって来た。全然変わらない。面影だらけの顔。アメリカ暮らしが長いから太っているかと思ったら、逆に痩せていた。
本人は、一時帰国して、こんな事をしてもらうとは全然予想もしていなかったという。そして、私たちがこの歳になってもこうやって頻繁に会っているなどとは思いもしなかったという。
最初はとまどいを感じていたようですが、ほんの一瞬で、15の世界に戻って、楽しいひとときを過ごしたのでした。なぜだろうか、この仲間達といると、なんのわだかまりもなく15に戻れる。何年も会っていなかった人間がやって来ても、その空白を埋める時間なんて必要が無いのです。その間にどんなに辛いことや悲しいことが有っても、それは再会の時には何ら関係がないのです。でも、そのことを無視するのではなく、時がたってから知ることなのです。今自分自身にどんな事が起きていようと、とにかくこの仲間達と話していると、忘れられ、そして新たな力が湧いてくるのです。みんなが持っているパワーが乗り移るのでしょうか。元気になって帰ることが出来るのです。
結局、全員が集まったのは8時半過ぎ。揃ったところで、全員で記念撮影。みんないい顔してる。いい笑顔だ。それからも話は尽きない。主賓はその度に、なにしてた。どうしてた。の質問にあい。何度も同じ事を話したのではないかと思います。
異国の地で働いて、それなりの地位を得ることは並大抵の事ではないと思います。17年間帰ってこられなかったのも、一つには仕事が忙しかったこと。軌道に乗るまでは休みも取れなかったという。それでも、彼の口からは愚痴らしき事はでなかったように記憶していますが、3年前に大病したことは堪えたようです。それで、お酒もほとんど飲まずの生活になり、身体あっての人生。身体は大事にしなくちゃな。と。
いいよなぁ。いいねぇ。楽しいねぇ。なんのしがらみも無い世界。気心の知れた仲間との語らい。そんな言葉が出てくるようになってしまったのは、私たちが歳を取ったせいだろうか。
そして、いつものように、いろいろな話があちらこちらで盛り上り夜は更けていくのです。来られなかった人間からは電話も掛かってきて、主賓も楽しんでくれたことでしょう。
もっと、頻繁に帰ってきてよね。おう。これからは2,3年に一度は帰ってくるよ。と彼の住所とe-mailアドレスを書いてもらって別れたのでした。
これで写真も送れるし、メールで近況報告も出来る。今までのように、彼についての変な噂も立たないだろう。世界中を駆けめぐるe-mailってすごいなぁ。
それにしても、時間を気にせず場所を提供してくれるところがあり、電話一本で駆けつける友がいる。なんて幸せなことなんだろう。こういうことを開くたびに私は三浦半島に帰りたいと思うのであった。
お風呂の中、通勤途中や仕事の合間に、去来するいろいろな言葉、瞑想、考え、想像。すぐに書き留めておくことをしないと悲しいことにドンドンと消える。少しして、さて書こうと思うともうすっかり消えている。何を考えていたのかも消えているのである。悲しい。跡形も無いことが淋しく悲しい。
忘れるといえば、いろいろ忘れます。持っていくのを忘れないようにと、玄関先に置いてもなぜか、それをまたいで出かけてしまう。一度持っても、何かの拍子に置いて、そのまま。本人は持ったつもりなので、現地に着いて忘れたことに気付く。
山梨まで富士山を撮りに行って、さて、ここから撮ろうと車のリアシートに手を伸ばすと、カメラがない。三脚だけがある。真剣に取られたのかと思いましたが、記憶をたどっていくと、玄関に置いたのでした。でも、玄関に本当に置いたのか、もしかしたら車に乗るときに、一度外に置いたのでは。もしかしたら道路に置きっぱなしか。と心配が巡る。
朝早く起きて何をしに、山梨まで出かけたのやら。そんな日に限って富士山がきれいなんです。家に帰ると玄関に寂しくカメラがお留守番をしていました。玄関のなかでよかった。と安堵。
シルクロードオレンジをバックに富士山が本当にきれいに見えていた、三浦半島の有る夕方。ばったりであったこの景色に一心不乱でシヤッターを押した。37枚でもシャッターが下りる。38枚。アレ。おかしい。と、カメラを見るとフィルムが・・・アチャー。この時ほど落胆したことが有りません。逃がした魚は大きいといいますが、あれほどのきれいな夕焼けはその後見たことが無いのです。
忘れてはいけないものは、バックに縛り付けておきます。さすがにバックを持っていくのを忘れることはない。あああ、有りました、バックを忘れたことも。小学校の頃、新しく買ってもらった、手提げ袋がうれしくて、メインのランドセルを持っていくのを忘れたことは有りました。落胆していると、優しい友は一緒に家までランドセルを取りに行ってくれました。
とにかく、出かけていく時に持っていくバックに縛り付けておくのが一番です。バックを持てば、ずりずりと一緒にくっついてきますから。中に入れても何かの拍子にバックの中身を入れ替えたり、他のものを持ったかという点検でバックの外に出たら、それは二度とバックの中に入るとは保証でき無いのですから。
あーあ、自分ながら情けない。
プロフィールにも書きましたが、中学の友とは、いまだに何かの理由を付けて会ってます。卒業してからどのくらい会っているのだろう。子育ての時期にはなかなか出てこらなかった人も出て来るようになった。何度会っても話は尽きない。
先日も、新年会と称して数名と飲みましたが、今回は私の人生観を変えた二人の先生の参加していただけました。
当時の先生の歳をはるかに越えた今でもお会いできることは、うれしいことです。人生の先輩、後輩として杯を重ねあわせることが出来るなどとは思ってもいなかったです。ほんとうにうれしいことです。
人生の中で、いろいろな出会いがあるのですが、この仲間との出会いも私の財産ともいえます。いろんな意味で影響しあっているいい仲間です。何よりも、こうやって会うと、自分が抱えているすべてのことを忘れて15歳に戻れる。幼稚園からの友もいる。いい歳をした男と女が呼び捨てや君呼び。気の置けない話をして、夜のふけ行くのも忘れてしまう。いいなぁ。
全体の同期会も、2年に一度、開いていますが、こちらは参加者が多くて、話もあちらこちらに飛んで、二次会三次会と流れていきます。先生方も沢山参加していただけて、みんな楽しそうに過ごします。
知らぬ間に大声で話すので、帰ってくると声が出なくなっています。とても楽しいひと時です。自分も楽しい、みんなも楽しい。みんなが楽しんでくれると、私たちも開いてよかった。といつも思うのです。みんなが楽しく過ごしている姿を見るのが私は好きです。ひとりでも喜んでくれる人のいる限りこの会は続けていこうと思っています。
もし、一度もそういう会に出たことのない人、毎回欠席のはがきを出している人、返事も出していない人。一度勇気を出して参加してみてはどうでしょうか。なにか違う世界が開けるというか、もとに戻れるというか、何とも言いようのしれない力が湧いてくると思います。
確かに、中学時代にいやな想い出が多い人は、当時の人たちに会えないかも知れない。会いたくないかも知れない。
強者は歴史を忘れるが弱者は歴史を忘れない。と言う言葉が有るので、参加したくない気持ちはよく分かるのですが、それを忘れて参加して欲しい。今の自分の姿を考えると参加できないなんて、思わないでください。それは幻、15に戻った世界で時間は進んでいくのです。まるでタイムリップしたように、会わなかった期間を埋める必要は無いのです。
当時出来なかったことも、長い年月を隔てると出来たり、聞けたりすことも有ると思うのです。時間とご都合が合えば勇気を出して、出かけてみてください。15に戻るのではなく、改めて知り合いになる人もいて、まったく新しい世界が開けるかも知れません。こんな楽しい時間を過ごせないのは、もったいないです。
どうぞ、勇気を出して参加してみてください。ひとりで参加できないときには、幹事さんにぜひ連絡をしてみてください。
会社で目の前に座っている課長の家が長野は小海線沿線に有り、そして、数年前に母親が亡くなってからは誰も住んでいないということを、ひょんな世間話から知った。母屋に納屋と土地も畑も結構な広さだという。
「なんてもったいない。私が住みたいよ。」「先祖から預かったものだから俺の代で手放すわけには行かない。子供の代になれば分からないけどなぁ。」「いやいや、売ってくれなくてもいいのよ。貸してくれれば。そういうところに住みたいって人って多くいて、探しているのよ。」「そんなものかね。俺はもう住む気はないけどなぁ。」「あーあ、もったいない。貸して欲しいなぁ。その家はどうなっているの。誰も住まないと傷むよね。」「今は親戚がいろいろやってくれてるよ。たまに風は通しているみたいだね。俺の一存で貸すわけにも行かないし、たとえ貸すと決心しても、他人者を住ますには、まわりの親戚たちが了解しないだろうな。」「やっぱり、どうしてだろうね。過疎化が進んで人がいないいないと言うのに、住みたい人を受け入れてくれないのよね。」
田舎暮らしを求めている人がいる、空いている家がある。需要と供給で、上手くいけば万事丸く収まる。しかし、そうは簡単にいかないのですよね。世の中。
いろいろ話を聞けば、田舎には空き家になっているところが多くあるという。年老いたので都会の子供の所に行ってしまった、親が亡くなって後を継ぐ者がいない、などといろいろな理由が有るようです。
しかし、いつか帰るかも知れない。自分の代では処分は出来ない。自分の代で処分するには相当の覚悟をしなければ出来ない、周りからの重圧がすごいと思うという。処分しなくても貸してくれればいいのにと思うのだが、一度貸せば出ていってもらえない。どんな人が来るか分からない。などとの不安要素も有るようです。だから、それらは市場に出るわけでもなく、人目に触れることなく寂しく過ごしている家も有るのでしょう。
過疎化が進んでいるのに、他の者を受け入れてくれない地域もまだまだ多いです。住みたいと思った場所に地道に通い、もしくはアパートなどに移り住んで、土地の人に認められ、家を紹介してもらう。と言うのがいい家を見つけるコツだという。
確かに、住みたいという人をどんどんと受け入れれば、中には変な人もいるかも知れない。今までのその土地の習慣風習で上手くいってきた事が、破壊されてしまうかも知れない。今の都会の人たちを見ているとそれはいえる。自分勝手な人が多い。でも、そんな人間ばかりではないし、本当に心から純粋に田舎暮らしをしたいって人もたくさんいるはず。都会から着たものと地の人たちとがどうやったら融合できるのか。難しい問題なんだろうか。
今日は引っ越し記念日。5年前の今日ここに越してきたのである。昨日のことのように覚えている。この5年の間にいろいろありましたが、過ぎ去れば早いもの。
寒かった。寒かった。引っ越し前の掃除やカーテンつけに来たときに、しんしんと床から冷えるのには堪えた。マンション中が冷えていたのでしょう。引っ越し前だから暖房器具は無かったので、着込んで作業をしたのでした。それでも、足からドンドン冷えてくる。耐えきれなくて近くのスーパーに暖まりに行ったのでした。何を買うわけでも無いのに、地下から二階まで何度となく往復して、暖まって帰ってきて、また続きをするのです。
引っ越しの当日は、一番最初にファンヒーターを出したものの、引っ越しのトラックには灯油を積んでもらえずに灯油が無い。結局、灯油が無くてファンヒーターはつかず。エアコンの移設工事が来たのは、午後の遅い時間。手伝いに来てくれた友達も寒い寒いと。普通マンションって暖かいんじゃないの。と文句たらたら。
夕方遅くなってやっと灯油が手には入って、ストーブ点火。周りから思わずの拍手。とにかく、寒かった。今まで火の気がないコンクリートの固まりは冷え切っていたのですね。そして、フローリングの床はなおさら冷える。
しばらくすると、隣の家、下の家も引っ越してきて、なんかマンションが暖まりだした。って感じでした。でも、寒い一冬でした。
翌年になると、随分と暖かくなってきて、引っ越しの時に手伝ってくれた友達には、今年は暖かくなったから遊びに来て。といった覚えがあります。下の家が暖房をつけると我が家も暖かくなるような気がします。
雪が降って停電になるとファンヒーターは用を足さなくなるので、石油ストーブを買い足しました。
私は基本的には暖房は嫌いなので、あまりつけないし、つけても暖かくなれば切ってしまいます。このころ同居人は起きればストーブを抱えるようにしていました。当然、灯油を買う当番は同居人です。
そして、今年は今日まで、ほとんどストーブはつけていません。たぶん灯油も去年の残りを使っているのではと思います。ファンヒーターの活躍する日はなく、石油ストーブを二回ほどつけただけのようです。他は一畳のホットカーペットのみ。
マンションが暖まったことも有るし、暖冬でもある。しかし、一番の要因は、私たちが冷え取りをして、下半身浴で身体の芯から暖まり、下半身にたくさんはいて、上半身を薄着にする生活にしたからでしょう。
我が同居人は、去年まではストーブを抱えて、家の中でジャンパーを着ていたのに、今年は風呂上がりは半袖であり、普段もTシャツにトレーナー。去年の姿からは想像が出来ない。変われば変わるものである。
さて、明日から6年目になるわけです。ここに越してきた当初、私自身はここには10年も住めばいかな。と思っていたのですが、5年という歳月もアッという間だった気がします。このままで行けば10年もアッという間なのでしょうか。でも、私としては10年目が来る前に、終の棲家見つけたい。と思っています。
マンションの四角四面の天井や壁、せり出した下がり天井にどうも慣れない。確かにすきま風は吹かないし、ドアのカギ一つで戸締まり完璧。忘れん坊の私にはもってこいである。でもでもでもなんです。外の天気や気温を感じる生活がしたい。
断煙なんて言葉があるかどうか分からないけど、、禁煙ではなくたばこを止めた話です。禁止されたのではなく、自らが断ったので断煙としてみました。
会社のストレス、家でのストレス解消という、お題目の上でたばこを吸っていた時期がある。あの時は、それが最大なるストレス解消方法だと思っていた。なぜ、吸うのかと問われれば、そう、答えていた。
一番はじめは、たぶん学生の時に好奇心で吸って、でも、私には吸えない。こんなのどうして。と思ってそのまま吸わなかった。私には縁のないものだと思っていた。
それが、ストレス解消として吸い始めたのは何時のことだったんだろうか。確か、二十歳は過ぎていた。ふとしたことで、一本もらったら、なんか気持ちが落ち着いた。仕事で、身体も心もがんじがらめになっていた頃だった。
それからは習慣になってしまった。最初の頃は、口の中の臭さが気になり、吸った後は、ガムを噛んだり、歯を磨いた。あまり深く吸うと気持ち悪くなった。なにもそんな思いをしてまで吸うことは無いだろうに。と、思いながらもすがるものは、それしかなかったのかも知れない。
そのときは、仲間内でも沢山の人間が吸っていて、吸うことに疑問なんか無かった。世の中も気兼ねなく吸える環境だったし、煙いの臭いのって、言う人がほとんどいなかったのである。在来線のなかで吸えたんですよね。今は、喫煙者は肩身が狭いですね。
そのうちに、臭いも分からなくなり、気持ち悪くも無くなった。お酒を飲んで、飲み過ぎ吸いすぎ。そんな毎日を過ごしていたときもある。止めた方がいいのかな。と思ったことは有る。気持ちだけ本数を減らすことはあったが、具体的に何をしたわけではない。
吸えない環境下にいれば、何時間でも吸わなくてもいられるし、きついたばこは吸えなかった。こんなに吸わなくてよいのなら、ずーっと、吸わなければいいのに。と自分でも思うのだが、吸える環境になると、吸ってしまう。
家を出て、一人暮らしを始めた時から、部屋の中では吸わず、ホタル族をし、雨の日は台所の換気扇の下で吸っていたのです。
昼間は誰もいない閉めっぱなしの部屋に帰って一歩入ると、臭うのである。たばこが。換気扇のフィルターに付いた臭いらしい。料理を作っていても、臭いが気になる。たばこを吸う自分が何でこんなにも臭いが気になるのか。
当時、家の中からすべての合成洗剤を排除し石鹸にして、化粧も止めて二年ほどがたっていたころ。引っ越しした家では、最初から使っていなかった。家の中に、科学的に作られた臭いが無くなっていたのです。化粧水も自分でクエン酸と焼酎で作っていたし。香料が家の中には無かったのですね。自然回帰だ、食品添加物や合成洗剤の怖さを訴えている人がたばこを吸っているのは、実際の話変だったわけです。
科学的香料が無くなってみると、たばこの臭いだけがクローズアップされてきたのです。髪の毛も、服も気になる、タンスを開けても臭いが気になる。こんなに気になるのならば、自分が吸わなきゃ良いんだ、止めればいいのにと、でも止められない。ジレンマに陥る。
忘れもしない、七五三の前の日、そのジレンマがひとりで爆発した。何で、こんなに臭いのに離れられないの。ストレスの源だった家もでてきたのに、吸う理由が無いじゃないか。と、自問自答し、吸いかけのたばこからストックのたばこ、マッチ、ライター灰皿すべてをゴミ箱にぶち込んだ。最後の一服なんて考えもしなかった、そのままもみ消した。
次の日、口寂しくなったときのために、ガムや飴を沢山買い込んできた。
一番辛かったのは、食後と飲み会。ご飯食べた後に、ここで一服していたよなぁ。と思う。しかし、それも一週間だった。
飲み会も当時は車で通勤していたので、ほとんど参加せず。会社も完全分煙になり、自分が煙の中に行かなければ、臭いをかぐこともなかった。臭いをかがないと言うことが一番良かった。
初めは今日で1週間、今日で1ヶ月と数えていたけど、それもいつの間にかしなくなった。吸いたいという気持ちが薄らぐのと、数えなくなるのは比例しているように思う。そして、山ほど買った、お口の友達はほとんど在庫は減らなかった。
当時は自分では止めたとは言わなかった。何人も止めたといいながら次に会ったときには吸っていた人を見ていたので、絶対にそれだけはしたくなかった。食後に吸わないの。と言われれば、今は吸いたくないと言っていた。やっぱり、一番辛いのはお酒の席。だから、なんだかんだと理由を付けて飲み会の席から離れていた。
一年半が過ぎて、初めて止めたという言葉を発した。飲みに行っても吸いたいと思わなくなったのである。それよりも、飲みに行って帰ってくると、全身たばこ臭い。バックの中も、下着までも臭いのである。ここまで臭くなるとは吸っていたときには気付かなかった。
そして、あの七五三の前の日から、一度もたばこを手にしていない。
今では、たばこは絶対的に臭いと思う。世の中禁煙が叫ばれているのは、吸っていた人が止めて、臭い臭いと言っているのだと思う。ごたぶんに漏れず、私もそのひとりである。もともと、鼻はいいので、臭いには敏感なのである。電車の中でたばこを吸ってきた人が隣に座ると臭いと思うし、会社のなかでも喫煙室から出てきた人とすれ違うと臭い。
飲み会に行っても、喫煙席と禁煙席を積極的に作る。空調の流れを判断して、当然、喫煙席は風下。世間も分煙、禁煙が進んできたので、受け入れてもらえる。
しかし、それも、今ではあまり積極的にしなくなった。出来ればそれに越したことは無いが、出来なくても仕方ないと思うようになった。臭いが臭いことには変わりないが、煙に負けなくなったのでしょう。
自分が吸っていて、周りもその環境に有るときは、吸わない人の気持ちが分からなかった。環境が変わって、自分の周りに吸わない人が多くなったときに、煙をいやがる人の事がよく分かって、食事の席や、人の家に行ったとき、カラオケボックスなど喫煙してもいいところでも、吸うことはしなかった。それが、たばこ吸いのエチケットだと思った。
私は自分に強いわけでも、意志が特別強いわけではない。それなのに、そんなに苦労したわけでなく止めることが出来たことは、自分でも不思議です。あの日あの時臭さに爆発し、自分の置かれている環境にたばこの臭いが無かったことが、止められた一番の理由でしょう。そして、私の鼻が異様によかったことも幸いしているのではと思っています。