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achaの言いたい放題
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チェーン化された喫茶店が多くなってきたと先日書きましたが、チェーン化すると個性がなくなります。どこに行っても同じ味、同じ雰囲気の店になるのですね。どこへ行ってもそれが有るから、ある種の安心なのでしょうか。
コーヒーゼリーが食べたいときはこの店。チョコレートケーキが食べたければこの店。日替わりサービスのコーヒーが有る店。ああ、アオキのココアが飲みたい。一番館のブラジルが飲みたい、こかのロワイヤルの気分。と、その時の自分の精神状態や会う相手によって、昔は、ぴったりの喫茶店を選ぶことが出来たのですね。それが今は、ほとんど出来ない。
たばこの煙、臭いが嫌になってきたので、いつの間にか喫茶店に入る機会がなくなってしまいました。しかし、気付くと禁煙席が作られている店が増えてきたのですね。これはスタバの影響。いいことです。コーヒーは飲みたくてもあの煙がと思っていた人が沢山いたわけですね。
入口で禁煙席有りますか。と聞いている人を何人か見かけたことがあります。ないというと店から出ていく。世の中変わったものです。いい方向に変わっているのですね。それでも、席が有ってもホンの少しだったり、なんと風下だったりもしますが、とにかく一歩前進ですね。
禁煙と言えば、横須賀市の久里浜にもう15年くらい前から、禁煙の喫茶店が有りました。当時、喫茶店と言えば、コーヒーとたばこと思っていたので、とても不思議でした。
喫茶店というのは一服したくて行く人が多いだろうに、そこが禁煙だったらたばこ吸いにとっては悲しい物だろう。 ミスドに入っている女性のほとんどは、ドーナッツが食べたいわけでも、コーヒーが飲みたいわけでもない、と私は思うのです。一服したいから入るのですね。昨今の若い女性のように、そこらに座って吸ったり、歩行たばこなんて飛んでもない。と思っているかどうかはわかりませんが、とにかく少しでも人目を離れた場所でたばこを吸いたいのです。
そんな時代にこの禁煙喫茶、大丈夫かな、やっていけるのかな。と思っていたら、時代を先行していたのですね。まさか禁煙の喫茶店が出てくるとはその時は思いもしませんでした。
そして、今でも健在のようで、先日、知り合いの寿司屋に行くと、そこの喫茶店の話が出ていました。そうかまだ元気なのね。また行ってみたいなぁ。と思ったのです。
全面的に禁煙の喫茶店が増えてきました。これは今の中高校生が当然のように店の中でたばこを吸うことを防ぐことにもなりますね。店の中に大きく未成年者の喫煙お断り。なんて書いてあっても、可愛い顔をした少年がプカプカしているのです。
一昔前ならば、店の人も直接注意したのでしょうが、今の世の中何をされるかわからないから、だったら全面禁煙。としたかどうかはわかりませんが、これはいいことだと思いました。
石川県は金沢に行ったに、たばこ吸えます。と言う看板がある喫茶店が有りました。何でこんな事と不思議に思ったのですが、禁煙の喫茶店をお知らせするのではなく、それが当たり前で、喫煙できることをお知らせするのですね。
喫茶店のあり方も変わってきた物です。もしかしたら、あの消えてしまった喫茶店ももう少し頑張れば無煙者に指示されだのだろうか。
毎日、毎日、殺人だ、殺傷だ、傷害だ。と言うニュースがあまりにも多すぎる。見るに耐えない。
昔から、キレ易い人や、すぐに暴力を振る人はいた。しかし、こんなにも簡単に、こんなにも何気ないことで、むかついた、カットなった言うことで、殺人までをする事はなかったと思う。
若いから我慢が出来ないのかと思っていたが、いい歳をした大人も見境なく人を傷つける。何が日本人をそうさせてしまったのか。
若者のエネルギーを爆発させる事、場所が無いのだと思っていた。バイクで暴走すれば規制され、スポーツやるにはかったるい。有り余ったエネルギーが、簡単に人を傷つけるのだと少し前までは思っていたが、そうではないらしい。根本的に何かが違う。見えないところで、何かがどんどんと変わって行く。
有事法案でも、郵政民営化でも何でもいいけど、もっと日本人の基本的な事を考えないと、日本はダメになる。政治家よ、小泉さんよ、もっと真剣に日本の将来を考えた方がいいと思う。
子供は被害者だと思うのに、大人並の凶暴犯になったからと、少年法を変えるのではなく、そんな子供が増えないようにするためにはどうしたらいいのかを考えるべきです。
厚生労働省が認可したから安全だ。なんて思わないでください。認可しやすい物からしているだけなんですから。認可して欲しい方からの安全データだけで、認可している場合も有るのですから。
エイズにしても、狂牛病にしても政府が認可してもこんな事態なのです。目に見えているものさえ、こんな状態。目に見えない物は将来どうなっていくのか。
政府のやることを信じられなくなっていく。自分の事は自分で守るしかないのだろうか。
20年30年前にはなかった病気や事態がどんどん起きている今は、その時と何がと大きく違うのか。それは食べ物と生活時間帯だと思う。
食品添加物や化学物質にまみれた食べ物を口に入れていたらどうなるのか。食品添加物の多くが世の中に出てきてから何年経ったのだろう。じわりじわりと我々の身体を浸食してきた化学物が今のキレる人間を作ってきたのです。簡単便利を求めてきた代償ですね。
何でもかんでも手にはいる。お腹が空いたらコンビニ行けば何でも手にはいる。しかし、コンビニで食べたお弁当で食中毒になったり、お腹をこわしたりする事有りますか。ないですよね、きっと。
お腹が痛くなったことを保健所に言われれば、すぐに営業停止です。どこの何を食べたかわかるから、わかったところは責任をとらされるのです。
食べたらお腹をこわす、食べたら食中毒になる。すぐに結果が現れる物にはいろいろと対策は立てるけど、長年蓄積して現れる結果はだれのせいだかわからない。
すぐにお腹をこわすと犯人は分かってしまうので、食品を腐らないように防腐剤をたっぷり使う。それで、お腹はこわさないので犯人にはならない。たとえば、それが身体に何らかの影響をして、それを食べた人が時を経て、死のうが殺人をしようが、ガンになろうが、なんの立証もされないのです。犯人にはならないのです。
と、書いていたらなんと、タイムリーにミスドの事件。そんなものなんですよ。今は何を食べさせられているかわからないし、何でもお金で解決しようとする。いったいなんなんでしょう。大人がこんな事をしている世の中です、若者がまっとうに育つわけがない。
昔は「キレれる人」と言うのは、頭がいいとか、回転がいいとかの尊敬の眼差しだったように記憶している。いつから悪い方へと変わってのだろうか。
朝になったら起きる。夜になったら寝る。夜だって10時11時には寝て、12時なんて真夜中だったはず。朝は6時には起きていたのではないだろうか。
夜は遅くまで、テレビだ、ゲームだ、ビデオだ、インターネットだ。とやっている。そして、朝は出勤ギリギリの時間に起きてバタバタと出ていく。時間に余裕なんてない。
小さな子供さえ11時12時まで起きているという。子供は8時には寝るものだと思っていた。子供がちゃんと睡眠時間を取らないので、低体温、低血圧がふえ、風邪をひきやすい、体調を崩しやすい。すぐに疲れる。食べるものも、噛まなくていいものを食べ、青菜、豆は食べない。出来合の総菜ばかりを食べさせられている。
そんな事を繰り返しながら、食品添加物で脳も内臓もじわじわとやられる。そして、キレる人間が出来上がる。子供にべったり世話をしていた親は理由もわからずナイフで刺される。
大人もイライラ、イライラ。やっていいこと悪いことを判断する能力も奪われて、理由もなくイライラに襲われて自分の子供や見知らぬ人を傷つける。
そして、自分も子供もどこかに病気を背負っている。
ああこのままでは日本は壊滅する。すぐに現れる危険ではなく、もっと長い目で人間の生活を考えましょう。食べる事、食べるものの大切さを考えましょう。人間食べることによって身体が出来るのですから、変なものを食べれば変な人間になると思うのです。そして、変な身体になり、変な病気に掛かるのです。
自分の食べるものは自分で料理し、情報やマスコミにだまされない知識を持って生きていきたい。昔のようにキレる人間は、尊敬の目で見られる世の中に戻って欲しい。
ああ、美味しい珈琲が飲みたい。最近はチェーン店ばかり。どこに入ってもこれはと思う珈琲に出会うことがない。なのにどこも混んでいる。特に、あのスタバ。何時行っても席はほとんど満席。満席なのにトランプなんてやっているアベックはなに?
禁煙なので、今までコーヒーは好きだが喫茶店の煙が嫌だという人たちにもうけているのでしょう。店の外の席まで満席。テラス席は喫煙OK。豆に匂うからと禁煙はいいと思うが、どうも私は好きになれない。注文方法がよくわからないって事も有るけど、コーヒーの味は私が求めている物とは違う。でも、煙がないと言うことだけで、入ってしまう場合がある。
私は昔ながらの喫茶店で珈琲が飲みたい。どんどんとチェーン店は増えていくのに、老舗の喫茶店は消えていく。寂しいことです。首都圏では土地代にコーヒー代がついていかないのでしょうか。
久しぶりに横須賀に行って昔よく行った喫茶店の場所に行くと、ほとんどの店が無くなっている。悲しい。やっぱり喫茶店だけで店を維持していくのは大変なんだろう。
新規開拓をしようと思うのだが、老舗の喫茶店や地元の喫茶店と言うのは、どうも入りにくい。店の客は常連さんばかりのようで、よそ者が入っていくとジロリと見られているような気がして仕方ない。それと、妙に店の中が団結していて、新規の客は排他されてしまいそうな雰囲気もある。一度だけそんな思いに勝てば次回は何でもないのだろうが、何の用もないのに1人でコーヒーだけ飲みに入るには勇気がいるのである。
日曜日に散歩をしていたら、新しい店を見つけた。随分と歩いたのでケーキも食べたいと思っていたところに、ケーキ&コーヒー。店の前には、ケーキはなにやら有名なパテシェのところで修行をしたと書いてあり、コーヒーは注文を聞いてから一杯ずつ豆をひいてドリップしますと書いてある。そして、入れ口は季節柄かオープンになっていて入りやすい。私は、これは期待できるかもと思い吸い込まれるように入ったのです。
まだ開店してからそんなにたっていないような初々しい雰囲気。コーヒーはほとんどが350円でお代わりが150円。ケーキは300円台。私はまいるどコーヒーと、チョコレートプディングケーキを注文。確かにコーヒーは豆をひいてから入れていた。しばらくしてやって来たコーヒー。いつものように一口何も入れずに飲んでみる。ちょっとがっかり。せっかく今ひいたまめで入れたのに、その効果がないような味。こんな場合はミルクを入れる。これで少しはよくなる。しかし、そのミルクがショック。パックに入ったなんとかホワイト。常温で保存できるこのミルク、私は大嫌い。コーヒー屋だったら、このミルクは止めて欲しい。このミルクだったら牛乳の方がまだいい。そういえば、スタバもこのミルクね。やっぱりコストかな。
昔々、鵠沼の鴫立亭に初めて入ったとき、コーヒー500円、ケーキ500円。にはびっくりしたが、おいしさにはもっとびっくりした。当時、喫茶店でのコーヒーは300円が相場だったと思う。今では500円600円のコーヒーはざらにある。ざらにあるけど、おいしさに匹敵するコーヒーはなかなかない。
期待しないで入ったところのコーヒーが美味しいとびっくりする。このGwの旅で高知にはなぜか沢山の喫茶店が沿道に目立っていたけど、お昼を食べに入った道の駅レストランのコーヒーも美味しかった。
京都は嵯峨野のペンションのウェルカムドリンクも美味しかった。人生のうちで何度これはと思うコーヒーに出会えるのだろうか。
今日は折り梅という映画を見てきました。見てよかった。やっぱり映画っていいな。このような映画を見ると邦画がんばれ。と言いたくなる。
GWに入った日に商店街の隅の小さい映画案内板に貼ってあった映画のちらしを見つけて、直感的に見たい。と思ったのです。しかし、一日一度しかやらないのです。日曜も平日も午前中一度だけの上映。
帰ってきてから、ウェブでその映画のページを見つけて、ますます見たくなったのです。今週末は夫はまたまた1人で渡道。私ひとりで、ちまちま家事をしているのも何なので、思い出したように行ってきたのです。
はじめに通りからのぞいたときはひっそりとしていた映画館前、まだ時間が有るので、買い物をしてから再び行くと、なんとチケット売場に人が並んでいる。あらら。なんでこんなに並んでいるのだろう。この映画はそんなに人気が有るのかしら。と思いながらか私も並んだのでした。
前の人たちはみんなシニアのチケット。知りませんでしたが、シニアは1000円なんですね。私は一般1700円。入ってすぐにもぎりおねいさん。その向こうがもうドア。入ってびっくり、10列もない。一番後ろに座っても首が痛くなりそうな狭さ。あれだけ並んでいたから、さぞかし中は混んでいるのかとおもったら、半分ぐらい。しかし、始まる頃にはずいぶんな人数が座っていたようです。おじさん達も結構いましたね。
席は前も狭くて、足を組むのも大変。頸椎椎間板症の私は上を向き続けるのは辛い。なるべく寝そべって見ようとするのだが、足は前には行かない。こんな格好で2時間見ていたら、エコノミー症候群になってしまいそうだ。
同じ1700円で、こんなにも環境が違うのはなんで。と思ってしまう。リラックスして席に座れ、音響も言うことナシと言う場所も有れば、今日のように狭くて、音響も音が出ればいいか。と言う感じ。今日の場合は少し割引が有っていいんじゃないのかしらと思うほど。でも、この映画をかけてくれるだけいいのかな。このような所じゃないとやってくれないのだろうか。こんな事をしているから、日本の映画界が衰退して行くんじゃないのかな。いい映画を作っている人たちは沢山いるのに、それが沢山の人たちに見せることが出来ないんじゃないだろうか。
歩いて数分の所に小さい映画館が何軒も有る場所に住んでする私は幸せかな。昔は時間が有れば、ちょうど時間のいい映画を見たものです。突然なんの前知識がなく入っても、とてつもなくいい映画に出会えるときも有るのですね。しかし、今は時間つぶしに入るには高すぎる料金。最近は映画にはご無沙汰していたけど、久しぶりに映画に目覚めてしまいそうだ。レディースディか。それもいいね。
映画は環境の変化から痴呆症になってしまったお姑と嫁の話。姑役の吉行和子には、感銘してしまった。原田美枝子もちらしでは永島英子かと思うほどだったけど、演技も昔と比べたらなんかよくなった。何がどう変わったのかわからないけど。夫役のトミーズ雅ってこんな事も出来たんですね。って感じ。鶴間エリ、リリィ、加藤登紀子。周りの人たちも味のある人ばかり。
内容が内容なのに、変にジメジメしていなくて、よかったですね。確かに涙が出てしまう場所が何カ所か有るのですが、世代によって泣くところが違うのがはっきりわかるのです。私は嫁の立場で泣き、隣の知らないおばさんは姑の立場で泣いていました。映画が終わってドアを開けるとそこは外。普通だったら、涙を拭くくらいの時間が有るのに、ここはあまりにも外が近すぎて、みんな目が赤かったですね。
こんなにいい映画のに、作るのには大変だったようです。映画を作るのに市民運動を起こしたり、資金集めに苦労したり、名もない人が映画を作るのは大変なんですね。この女性監督2作目なんですが、名前だけは私は知っていました。
地元の人たちの応援がすごいようでしたが、私の好きな犬山もロケーション地だったようで、なおさら思いが入ってしまいました。
どうも、商業ベースに乗った映画は昔からあんまり好きじゃなかった。宣伝が多ければ多いほど、作品の出来が反比例するような気がしていた。大金を掛けて作ってみたものの、出来が今ひとつで、宣伝して集客しようとしている。としか思えないのです。確かに、それだけではなく、本当にいい映画は有りますよね。千と千尋もよかったですが。
こんな映画にもっとガンバってもらいたい。いや、応援したいですね。私は邦画か大好きなんです。しかし、全面的に宣伝をする訳じゃなく、メディアに取り上げられる訳でもなく、上映される映画をキャッチするのは難しい。もっと沢山いい映画を見たいと思う私です。今日はなかなかいい休日だった。
電車の中で化粧をする姿を見るのは随分と慣れてきたのか。いや慣れはしない。なんで人前で化粧出来るのか、私には理解が出来ない。何かの本には前頭葉がやられている。と書いてありましたが、最近は若い子だけじゃなくて、おばさんもやっているんですね。化粧直しをどうどうと。何でだろう。
人の目に触れずに、変身することを化粧って言うんじゃないのかな。それにあの化粧しているときのアホ面というか、自分でも間抜けな顔だなと思う顔を世間にさらけ出していることを気付いているのだろうか。知らないだろうな。自分の世界に入っているのだろうから。
小学生の子がビューラを取り出して、まつげをカールしたときは、たまげたけど、親が隣に座っていたことが不思議だった。今の親は小学生が化粧道具を持っていても、いいのだろうか。いや、親が買ってやるんですよね。考えてみればお子様化粧品が出てから20年くらいたつのだろうか、今の高校生はお子様化粧品の世代なんだろうか。それならば仕方ないのか。
大人の女性の化粧品購入離れから、対象が子供や男性にと移動してきたわけですが、すっかり商ベースに乗っかっている世の中ですね。
私が中学の頃に、アメリカンスクールとバレーの親善試合をしたことが有るのですが、その時、向こうの選手、応援者、みんな派手な化粧をしていました。当時は学生が化粧をするなんて、考えられなかったけど、今の日本の高校生はまさにこれですね。やっぱり、日本はいつの日もアメリカの道を追っていくのでしょうか。
しかし、席にも座れず、立ったままで器用に化粧する姿は感心してしまう。肩にバックをかけて、袋から順番に出してきて、ほとんど鏡も使わずに顔を作り上げていく。
シャドー、頬紅を指でつけて行くのだけど、その指はどこでどうして拭くのだろうか。もしかして、そのまま?
しかし、どなた様もパフが汚いですね。見ていると虫ずが走ってしまう。パフは洗って使うことを知らないのかしら。よくあんなにも汚いので顔が塗れるなぁ。
その鏡もですね、手垢なのか、とにかく汚いですね。きっと、シャドーなどをつけたままのその指で触るからでしょうね。たまには、鏡を後ろから見たらどうかな。汚いのがよくわかると思うよ。
パフは洗って、たまには顔のついでに鏡も磨いて、使いましょうね。せめて人前で化粧をするときは、もっと清潔感を出しましょうよ。ね。
三泊四日で四国は、愛媛、高知、徳島と行ってきました。これで、四国は制覇です。愛媛の知り合いのところでお参りも出来したし、鰹も食べた、うどんも食べた、四万十川、仁淀川、吉野川と見ることも出来て満足な旅でした。足摺岬と皿鉢料理が宿題になってしまいましたが、また行く機会を残しておくこととしましょう。
さて、早速ページを作ろう。写真を選ぼうとわがマックにスマートメディアを入れると、なんと空っぽ。一瞬凍ってしまう私。どうして。どうして。そういえば、前回の津久井浜散歩の画像が消えたのはやっぱり私が知らずに消した訳じゃないんだ。いつどうしてフォーマットをしてしまったのか自分では納得は出来なかったけど、間違えてやったんじゃない。と言う夫の言葉に半信半疑ながら納得した私でした。そうか、このせいなんだ。理由がわかってよかったものの、ショックです。まさか、こんな事で消えているとは想像もしていなかった。もう一度デジカメに入れると、やっぱり空っぽ。私の映像はどこに消えたのよ。今回はCONTAXはお留守番だったので、このデジカメだけだったのに。
出かける前にもう一度、吸い上げ作業をやっておけば気付いたのに。悔やんでも悔やみきれないが、前の画像が原因不明で消えたのは事実。また消えてはと思い、最後の晩に夫のパソコンにそれまでの分は吸い上げていたので、結果的には最終日だけが無いのですが、やっぱりショックです。夫はどこへ行くにもパソコンがお供なのです。
自分のマックに入れる前にどうしてまた試してやらなかったのか。しかし、私の誤動作、デジカメの方だと思っていたので、まさかマックに入れたときに消えたなんて全然思ってもいなかった。夫のパソコンでは出来ていたので、まさかのまさかでした。
最後の一日と言えど、大歩危の船下りや、祖谷温泉の渓谷、小便小僧の化粧直し作業、平家屋敷のいろり。などが有ったのよね。小便小僧は偶然に命綱を使って塗り直しの作業に遭遇したのです。夫は自分が撮った映像を使えばと言うが、そりゃそうだが、やっぱり自分の映像に愛着がある。ああ、ショック。
で、いろいろ試してみたのです。一昨日はちゃんとパソコンに入ったので、再び夫のパソコンで試すとちゃんと有る。そして、私のマックに入れるとやっぱり消えてる。夫のマシーンはWindows。もう一台のマックで試してみるとちゃんと出る。私のマックでも他のスマートメディアを入れてみるとちゃんと出る。
何がダメなんだろう。メディアがいけないのならば、どのマシーンでも出ないし、私のマックが悪いのならばどのメディアを入れても消えるはず。しかし・・・
そして、夫のマックで開いた後のそのままの状態で私のマックで試すと映像がある。一旦閉じたら消えた。ふーむ。と思い、そのまま私のマックに入っていた映像をコピーしてみる。開くと見える。一旦スマートメディアを出して、また入れて見るとなんと出る。デジカメのフォーマットがダメなのかと、やってみるが、さっきのスマートメディアではもうちゃんと出るのである。とにかく、画像をコピーしたことでこの64MBのスマートメディアは生き返ったのです。この64MBは今回が初めてではなく、数回の旅のお供になっています。一体何がダメだったのよ。私の祖谷渓谷の画像はどこへ行ったのよ。
いくら保証期間中でも、何が悪いのかわからないからどこへも持って行きようがないよね。私の泣き寝入りなんだね。ショック。可愛そうだけど、もうこの64MBの信用は無いので使えない。いや、マックがダメなのかも知れないから、吸い上げはWindowsですればいいのかな。と言うことは、これからは一旦他のマシーンで吸い上げをしないとならないのか。
やっぱり、デジタルはデジタルなんですね。理由のわからぬストライキにアナログ人間はタジタジです。あーあ、ショック。
電車に入ってくるなり、ミニスカートのスラリとした足を組んで、大きな声で話し始めた女性二人。まるで自分の家のソファーに座っているように、リラックスした座り方。パンチラになっても一向に気にすることなく、二人は電車に乗る前からの話の続きをしているようす。電車に乗ったからと、声のトーンを落とすわけでもなく、電車がホームに入ってきても聞こえるような声で話していたままです。
車内は乗客が余裕で座れる状態。そんな中での彼女らの話は彼とのデートの話。どうしてそんなことを大声で、それも電車の中で話せるのかと思う話。聞きたくないのにあまりの大声なので、向かい側に座った二人の話は私の耳にビンビンと入ってくるのです。
まるで、部屋の中に二人だけでいるような話の内容。誰といついつどこのホテルに行ったら、設備がどうだったこうだった。あらあんた、あいつと行ったの?おいおい、その先までは話してくれるなよ。自分たちだけの空間じゃないのだから。
と思っていたら、ここはあなたの家のリビングでは有りません。と言う、ポスターが張ってあったのでした。
しかし、最近の世の中、やっていいこと悪いことの判断がおかしくなっている。大人も子供も。どこまでやっていいのか、いけないのか。と言うラインが無くなってしまったのでしょうか。
自分だけがよければ、自分の会社がよければ、自分のところが儲かれば周りはどうなってもいい。
喧嘩は昔からあったけど、殺すまで喧嘩は素人はしなかったような。いじめにしてもどんどんエスカレート。官民政も何かが崩れている。いまの国会を見ていても、なんか変だ。
不正の暴きもそうである。確かに不正は裁きを受けるのが当たり前。しかし。と思うのである。本当はそんなことでなくもっと根本的にやることが有るのでは無いだろうか。
どうも、日本人の頭のどこかのねじが狂っているような気がする。どうしたら、ねじは正常になるのだろうか。
今の若い子達の服はロマカワとか言うらしい。何かと思えばロマンチックカワイイらしい。なにやら不思議なフッション。
そのレースを使ったパンツとスカートを合わせて、颯爽としているはずの若い子。彼氏と一緒に歩いているのに、歩く姿が、膝は伸びていないは、腰はへっぴりでがに股。
もっと腰を伸ばして、膝を伸ばせばかっこいいのになぁ。なんで、あんなにぎこちなく歩いているのか。足でも痛いのか。いつもの人間ウォッチングを駅ホームでやっていた私です。
偶然にも、車内では私の隣に座った。座るなり、「ああー、足が痛い。やばいよこの痛さ、明日学校に行けないかも知れない。」と彼氏に訴え、靴を脱いだのです。
やっぱり足が痛いのか。なにげに足を見ると、先がとがっていて見るからに歩きにくく、履きにくそうな靴。こういうのが流行りなんですね。かかとはバックベルト。そして、素足。
そうそう、なんで生足って言うようになったんですかね。素顔、素手、素足ですよね。生顔、生手なんて言わないのに、どうして生足なんだろう。
素足でサンダルを履くとべたべたしてきて、とても素足と言うほどのすがすがしさが無く、生々しい状態になるからかしら。素足に下駄は合うけど、靴に素足は合わない。生足の方がなんか臭そうで、べたべたしていてる状態を表しているのかな。でも、どうして素足で靴を履けるのだろうか。私には絶対に出来ない。それだけでも足が痛くなるしべとべとさが嫌だな。
まぁ、とにかくその子は素足に赤い靴を履いていたのです。足は所々が赤くなっていて、茶色いところもある。たぶんミュールを履いたときに当たった場所だと思われる。去年の情報番組で、流行りのミュールを履くのは涙ながらの努力が必要だとやっていましたね。
どうしてそんなにい痛い思いや辛い思いをしてまでも、流行の靴を履くのでしょう。それよりどうしてそんな靴が流行るのでしょう。トータルフッション?
私も以前、普通のパンプスを履いて歩いて、指が痛いなぁ。と思いながらも歩くしかなかったので歩いた。その後、何日かして中指の爪が半分取れた。そんなにも負担がかかっていたのか。と自分でもびっくり。パンプスはかかとがそんなに高くなくても長い間履いていると疲れてくるし、どこかに座ると脱いで足をブラブラしたくなる。
買うときにちゃんと試着というか、試し履きして買うのにどうしてこんなにいたくなるのか。パンプスは歩くための靴ではないのか。
そういえば、ニューヨーカーは通勤はスーツにスニーカー、職場でパンプスに履き替えるとやっていたなぁ。歩くには不向きなのか。こんな普通のパンプスをストッキングはいても痛いのだから、赤い靴の子は相当いたいものだと思う。
こんなに痛くなる私の足は普通の足では無いのかな。とシューズフィッターのいる店と言うところで、足を計ってもらい靴を買ったのです。
私の足は左右の大きさが少し違い、親指の高さが有るらしい。人より幅が広いと思っていたけど、そうではないらしい。今まで3Eを買っていたのに、2Eだという。Dと言う細身の足のサイズが有ることを知りました。今まで見たことが無かったです。
買った靴の値段は確かに高い。今まで買っていた靴の倍でした。倍と言っても今までが一万円台だから高くても3万円台。
今まで履いていたようなデザインは無いですよ。あくまでも足の事を考えたデザインですから。と言われて、計ったあとに、何足か出してきてもらい、試し履きすると、なんとぴったりのこと。どこにもあたることもなく、履いているという締め付けもない。
以前の試し履きは何だったのか。感激して、「すごいぴったり」と言うと、店の人が自慢げなのか、そうでしょう。それが私の仕事です。って。いいなぁ、自分の仕事に自信が有るのって。と思ったのでした。
少しの不満は、やっぱりデザイン。足が前に降りていかないように、しっかり甲のところで止めるデザインです。足の指が痛いのは、足が前にのめってしまうから。で、甲で止めるデザインとは、ピアノの発表会靴とでも言うのでしょうか。甲の所にバンドが有るのですね。
ここ数年では町でも見るようになったのですが、あの時は子供の靴って印象でした。それで悩んでいると、店の人が見慣れますよ。と言う。履いているときの感じと見栄えのジレンマ。
でも、履き心地には勝てない。で、買ったのですが、その靴の履き易いことこの上ない。一日中はいていても全然大丈夫。どこかで脱ぎたいなんて思わない。出張に行って、帰りに飲みに行って、一日中履いていても全然大丈夫。確かにデザインは見慣れました。
すごく不思議だったけど、それが当たり前なんだそうです。一足では履きつぶれてしまうので、二ヶ月に一足ずつ買いました。その後は発表会靴ではなく、甲の所をベルトで止める形。色違いで3足買いました。高いとかは価値観の違いかも知れないけど、私はこんなに楽になるのならば、高くは無いなぁ。と思います。それこそ、流行のデザインではないので、大事に履けば何年も履けるのです。
他にもいろいろ矯正はしてくれるので、ちゃんと計ってもらうといいですね。足の長さが違うとか、大きさが違う、人間左右均等な人はいないらしい。外反母趾の人も随分来てますね。腰の高さが左右違う人もいる。今まで歩きづらかった人が、歩く楽しさを戻せるんですね。
靴が足にあっているって、こんなにも幸せなことだったんです。あなたも靴に足を合わせるのではなく、足にあった靴を履いてみませんか、世界が変わりますよ。
人間は何のために働くのかな。食べるため。いい生活をするため。いい思いをするため。仕事が趣味って人もいるでしょう。やっていたことがいつの間にか、仕事として稼いでいる人もいます。そういう人は幸せなのか、それとも趣味が仕事になるって以外と苦しいことなのか。好きでやっていることに、振り回されて何のために忙しいのかわからなくなったりもしているかも知れませんね。
でも、サラリーマンで何かに縛られ、やりたくない仕事にも精を出し、そつなくこなし、嫌な人間関係もどうにか克服するために、すごいエネルギーを使っていると、ああ、私はここに何しに来ているのだろうとさえ思う。それがサラリーマンの宿命なんですけどね。
たまたまいい職場、いい人間関係、自分が好きになれる仕事に出会えればそれは幸せです。自分のやりたいことが見付かるまで、フリーターでいます。ってそれも幸せなのかな。
みんながみんなフリーターになったら、世の中は成り立たなくなる?フリーターになりたくても働くところが無くなるのか。
夏の暑いときは、しっかり働いて、食べ物を確保し、冬の時期にその蓄えを食べる。夏の暑いときに優雅に暮らしていたキリギリスは冬になったら途方に暮れる。だから、しっかり働きなさい。ってアリとキリギリスですね。
でも、最近の世の中を見ていると、本当にそれがいいのだろうかと思うようになってきた。定年を数年前にして亡くなる人の多いこと。定年したら何をしよう。これをしようとせっせとお金を貯めても使うことなく天に召されます。もしかしたら、その貯蓄は入院費に使ったのでしょうか。もしかしたら、定年は55才のままでよかったのでしょうか。
もし、日本が100人の村だったらと言う本にも、日本村の人たちは貯金が好きです。使うためにではなく、貯金をするために働いています。と有りました。まさに。
何のために働いて何のために生きて行くんでしょう。働くと稼ぐの違い。
どうせ同じ人生なせば楽しく生きていきたい。でも、子供もある、家のローンもある。今は、嫌な思いをしているけど、将来はきっといいことがある。と明日への希望を持って、稼ぎに出かけているのだろうか。アリのように将来には楽な暮らしが待っているのか。
人生50年だったときと、今の人生80年とどっちが幸せなんだろう。いや、人生40年の時代も有ったわけです。今でも、アフリカあたりでは42才くらいの人生の人たちもいるという。
私は最近、原始の時代の生活にあこがれます。自分で取れる物を食べて、余計な物は取らない。余計な物は殺さない。陽が昇ったら起きて、暮れたら寝る。本当に生きるために働く。何かを収穫しなければ、死ぬのですから。
自分で作った物で食卓を飾る。今日は白菜三昧、明日は大根フルコース。でもいい。
私はキリギリスになりたい。遊んで暮らすというわけではなく、自分らしく生きたいと思うのです。
そういえば、大人のためのイソップ物語が有るって聞いたことがあるなぁ。読んでみたい。
と言うタイトルで、日経新聞のプラス1にベスト10が載っていた。私はそのうちの9ヶ所に行っている。
1位の中尊寺は随分若いときに行っている。東北にはじめていったときで、いっぺんで東北好きになった。親戚を訪ねたり、友達を訪ねたりの旅。中尊寺は雪の中1人で歩いた。足が冷たくて困ったなぁ。1人で歩いた初めての旅かな。
2位の永平寺は先月行きました。あの大きさ、あの妙な静寂さ。若いお坊さん達は何を考えて修行をしているのだろう。と思いましたね。冬のお寺はひと味違う。
3位の法隆寺は高校二年の冬休み。初めての友達との旅。これも冬だった。京都奈良は普通は中学の修学旅行で行くのに、私たちの中学は行かなかったので、京都へのあこがれ。新幹線に乗ってみたい。と言う気持ちは強かったのに、お金が無くて、往復夜行バス。若かったけど、今のようにデラックスなバスではなく、国鉄の普通のバスだったので、辛かった。
泊まったところはお金もないのに、ユースホステルはなぜか嫌で、レディースホテル。今でも一泊1500円だった事を覚えている。先日嵐山にあれ以来はじめていったら、まだ元気に現在していた。ケチケチ旅行の第一歩の旅。
4位は唐招提寺。ここにも高校二年の時。
5位の室生寺は20代最後の歳だったろうか。旅日記をひもとけば正解は有るのだが、旅のリストを作るまで正解は保留。夏休みに行ったので、暑かった。奈良をひたすら歩いた。この五重の塔は小さいのに重圧感が有った。数年前の台風で被害を受けたときは心が痛んだ。奈良の方が見る場所は離れているが、なんかのんびり、心が優雅になるように思った。飛び込みで入った奈良の旅館はとっても良かった。
6位の西芳寺は行ったことが無い。確か予約がいるのですよね。この予約と言うのに弱い。いつかは行きたい。
7位の平等院も夏の時。夏の風が心地よかった。中を案内してくれるガイドさんを頼んだ訳じゃないけど、説明を覚えているので、いつものようにどこかの団体の後ろについて回ったのだろう。歩いた後の、抹茶フロートが美味しかったことをなぜか覚えている。
8位の善光寺は、一番最初は小学校の3年ぐらいだったと覚えている。桜がきれいだった。まんがのブッタを買ってもらった。地獄巡りもしたことが有る。ここは中学の修学旅行でも行ったし、社会に出てからも行っているので、7回は訪ねているように思う。一昨年、去年も行っている。一昨年行ったときは、カメラカバーを無くしてしまった。
9位の金閣寺も高校の時。どうして昔の人はこのような建物を造ることを思いついたのだろうか。自分の力の表し方なのか。と真剣に思ったのです。しかし、銀閣の方がいい。銀箔が張られていたのかな。なんて思う。そして、数年経ってまた行ったけど、やっぱり私は銀閣が好きだわ。
10位の清水寺は初めてが高校の時で、その後も3回くらいは行っている。季節が違うだけでいいところ。京都のこのあたりは何度行ってもいい。
こう見ると、やっぱり京都、奈良が多いのですね。それにしても中年になってから行ったところは一ヶ所か。