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achaの言いたい放題
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愛社精神なんて言葉はもう通じないのだろうか。私は、自社製品に有るものは自社製品を買う。そんなところまで意識するのかと、夫には呆れられるときがある。でも、どんなに小さいものでも自社製品を買うようにしている。
逆にどうして自分の会社のものを買わない人がいるのだろうか。と思ってしまう。他社商品を持って会社に来る奴を見ると腹が立つ。正々堂々とそんなものを持って来るんじゃないよ。と言いたい。あんたはそれを分解して調査するのか。
自社製品に信頼が置けないから買わないと言う。社員が信頼の置けないものを一般ユーザーに売っているなんてとんでもないと思う。信頼がないのならば、信頼できる商品に社員がモニターになったつもりで、使うのが当たり前だと思う。自社製品を愛せない社員が多い会社の将来はない。と思っていたら、確かに、我が社は崖っぷちだ。実証してしまった。
売り上げを上げるために社員販売セールをする。うちの商品は絶対に買わない。すぐに壊れるから。とうそぶくやつがいる。私はそんなことを言う奴は会社を辞めた方がいいよ。と喉まで声が出る。それを声に出して言えない自分も情けない。製造販売会社である。売れなければどうしようもない。
確かに、今の部署は製造でも販売でもない。直接関わっていないけど、我が社は製造販売業。その製造販売をしている社員のサポートをしている部署の人間がそのようなことを言うのだから呆れる。
景気がよくないからと創立記念日も10年前程前から式典も止め、まったく普通の日と変わらなくなってしまった。そのころからの社員は会社の創立記念日さえ知らない。せめて、創立記念日の日には社長のお話などが有っていいと思う。景気がよくなくてもカットしてはいけない行事は有ると思う。
そのころからか、愛社精神が薄らいできたように思う。何でこの会社に入ったのだろうか。そこで働いている以上は会社の繁栄を願うのが当たり前だと思っている。
社員が好きじゃない会社を他人が好きになってくれるでしょうか。好きになってもらわなければ、ユーザーに愛してもらわなければ繁栄はないのです。自分が会社にそっぽを向いているのに、給料が安い。会社のものは買わない。なんて言っている奴は会社にいる資格がないと思う。
でも、こんな奴らがいつの間にか増えていったので、今の会社が有るのでしょうか。いい時代もありました。行け行けバンバン。売れに売れて、前年比130%の右肩上がりの数字をキープしている時代も有ったのです。その時に今の定年間近の人たちは、バリバリの働き盛り。しかし、波に乗っているだけで、波を起こすことは考えなかったのでしょう。畑を耕すことも種を植え付ける事もせず、刈り取りだけに忙しかったのでしょうか。
団体意識、同じものを見ている感じている心は大切だと思う。自分の会社のことをもっと知ってもっと好きになって欲しい。愛社精神がなければ会社は蘇生しないと思う。
会社が勤続10年の社員を対象に早期退職を募集した。いよいよ来たか。10年ほど前に一度赤字に転落してからは、世間ではまだ流行になっていなかった「リストラ」と言う言葉が社内をかけめぐり、いろいろな手当はカットし、文房具は買うな、交際費は申告制、何でも節約、節約。そして、50歳以上の役職の退職勧告。
本来リストラは構造改革であり再構築で、人員整理という事だけではないのに、いつの間にかリストライコール人員整理になってしまいましたね。いつからだろう。
とにかく、我が社は2年に一度くらいは黒字になりながらも、こんな事を2.3回繰り返して、一昨年の夏はついに早期退職の役職年齢は40歳まで下がったのです。いよいよか。一般職まで来るのは近いな。と思っていたら、それはやって来たのです。
労組からの説明会では、定員をオーバーしても定員にならなくても一般職には今回限り。肩たたきも、逆肩たたきもしない。本人の意思に任せます。やりたいことがある人はどうぞ応募してください。まだこの会社で頑張りたい人は一緒に頑張りましょう。という。
今回は、申し出が有ってからの金額の提示ではなく、全員に会社から状況の説明があり、勤続10年以上の対象者全員に金額が提示されたのです。退職日は6月30日。その日まで何日もないのに、仕事の引継はどうなるのか。あとのことは会社が考えるという。外部パワーを使ってでも乗り切るという。とにかく、この上四半期で固定費の削減をしたいらしい。
私は、やりたいことがある。だからいろいろ考えたのです。早期退職の上乗せ分を見ると、自分で辞めると言うより当然だがぜんぜんいい。しかし、目先の金額だけで辞めることを決心すればそれは絶対に後悔する。私は金額が提示される前に何度も何度も考えた。いろいろな場合を想定した。
リストラされたというと、会社からあなたはいらないから辞めてくれと、言われたようになるけど、私はリストラされたとは思わないだろ。会社の利害と自分の利害が合致したと言うことです。
定年間近の人が、早期退職をすると近所の目が気になるらしい。定年退職をしたのならば、正々堂々と旅行に行くことも、趣味にも専念できるという。しかし、早期退職をすると、平日は外に出たくないと言う。土日は元気で平日はうつ状態になると言う。でも、それは、自分がリストラされた。人員整理された。いらない人間と烙印を押された。と思うからであり、自ら辞めた。自分でやりたいことが有るから辞めた。と、自分の気持ちがしっかりしていれば何でもないと思うが、人の目が気になって辞められないのも変だと思う。
目先の金額だけで考えても、あとから来る税金や健康保険料そのたもろもろの費用を考えていないと後悔するだろう。会社にいればとりあえず給与はもらえるのだし、いくら加算金が有っても、そんなのそれこそどのくらい持つのだろうか。子供がいたり、ローンが有ったり、いろいろ考えることはある。
幸か不幸か私にはローンは有るけど、子供はいない。質素に食べていけるだけの金額が有ればいいと思っている。いざとなれば、新聞配達や早朝のコンビニで数時間働ければいいとも思っている。職がないと言っても、人がいやがる仕事はきっと人出不足では無いかと思っているが、考えが甘いかな。
誰々が辞めるから自分も辞める。と言うのも最低ですね。それこそ後悔の人生でしょう。要は、自分がどうしたいのか。と言うのが一番大事。それがしっかりしていないと何をしても後悔するし、人の目が気になるのだろう。
逆に、辞めたくても辞められない人も確かにいる。辞めて欲しいのに辞めない人もいるだろう。
早期退職というものに対して、自分がどのように対処するか。自分の気持ちがしっかりしていないと、何かに取り憑かれて、気付いたら予想外の結果だったりする。
失業率もどんどん上がり、思うような職がないという。どうしてこんな世の中になってしまったのか、と思う気持ちも有りますが、私にとっては転がり込んだチャンスだと思っている。
横浜市営地下鉄では、各駅で一つの国を応援している。駅にはその国のユニフォームが飾ってあったり、小学生が書いた絵が張り出してあったりもする。人形の館からはその国の人形が貸し出されて飾ってある。どこの駅もワールドカップ一色。と言いながら展示が淋しい駅も有りますが。
ワールドカップ、ワールドカップと大騒ぎする気持ちは余りよくわからないし、サポーターと言うのも感覚的につかめないので、高いチケットを買って、ユニフォームを着て12人目の選手の気持ちになって応援する気持ちはチョイト理解できないところも有ります。でも、まぁ、私も若い頃はバレーボールに熱中して、国際試合に1万円近く出して見に行っていたので、同じ事でしょうかね。
まぁ、関心度が低いので各駅で応援する国が決まっていることは知っていましたが、ほとんど気にすることなく毎日地下鉄に乗って通勤をしています。自分が乗り降りする駅がどこを応援しているのかな、くらいは見て知っています。
試合は興味があまりなくても他に見るものがなければ見るだろうし、日本の試合はたぶん見ると思います。スポーツ観戦は好きな方だし、サッカーのルールは良く知らないけど、知らなくても見ればそれなりに興奮するのがスポーツですよね。プロ野球をのぞいては。
外人さんへのサービスか駅名に番号を順にふったこともアイデアですよね。新横浜は何番で降りてください。って簡単でいい。横浜国際競技場で試合のある日は、臨時便を出したり、時間を延長するなど、サービスに努めているので、なかなかいいところが有る会社だなぁ。などと思っています。
そして、今日初めて知ったのは、横浜市営地下鉄の駅数と参加国の数が同じなんですね。びっくり。そんなに興味がなかったので、参加国がいくつ有るかも知らずに過ごしていました。
今日まじまじとポスターを眺めていたら、どこも重複する駅がない。あれ、と思っていると参加国は32国、地下鉄の駅も32駅と書いてあってびっくり。
番号をふってから参加国の数と同じと知ったかどうかは、知らないけど、これに気付いた人は凄いと思う。大発見だったんじゃないのかな。それとも参加国の数が決まっているので、新横浜に国際競技場が出来たときから考えていたんだろうか。私にとっては凄い発見でびっくりしたけど、きっと知っている人は沢山いたんでしょうね。こんなことは。
朝、駅で小学生がみどりの募金をしていた。私はゴミの日でもあり、電車の時間にギリギリ、何で朝なのよ。なんて思いが横切りそのまま改札に入ってしまった。
みどりの募金は中学生の時に、学校近くの駅でやったことがあるので、その時の事を思い出した。あの時は夕方だった。募金をしてくれるのは、女性より男性の方が多い。でも、それは私たちが中学生女子だったからか。
中年のおばさんはほとんどしてくれない。おじさんの方がしてくれる。若い人でもサラリーマン風のきっちりスーツを着ている人より、ラフな格好の人の方がしてくれ、少しだらしがなさそうな人の方がお札を入れてくれたりする。ヤンキーっぽい兄さんの方が、気さくにしてくれる。
人相風貌で決めてはいけないと知ったのです。意外な人が募金をしてくれる。なんか中学生にして人間模様をみてしまったのですね。
だからか、募金したかったのに、電車が。って、電車は一台遅らせてもよかったんだなぁ、と乗ってから気付いたのですね。
すると、翌日は昨日より元気な子供達が、学校名と6年何組と書いたボードを胸から下げて立っていたのです。あの発想は何だったのだろう。
でも、出来なかった。あの羽がなければしたのかな。それだって、いらないと言えばいいことか。やっぱり街頭募金をするのはなんか恥ずかしい。結局はなんだかんだと言っても、おばさんは募金をしないのだろうか。いや、私はまだおばさんだとは思っていない。
その日の帰りには、気付くと駅の壁に二日間の募金の金額が張り出され、学校の金額と駅での金額とお礼が書かれていた。いままで、どこの街頭募金でもこんなものは見たことがなかった。町内会での募金は後々回覧板で回ってくることは有っても、他に有るだろうか。
私は7時40分頃の電車に乗るわけですが、あの子達は何時からいたのだろうか。これもなんとか言う授業の一貫なのだろうか。なかなかおもしろいことをすると思った。
ここ2、3ヶ月前くらいから、ゴミ収集日にカラスがゴミをあさるようになっていた。一ヶ所に一羽だったのが、どんどんと増えて、近所のゴミ置き場いたるところにカラスが現れたのです。
ビニールまで食べているので、そんなものを食べたら病気になるよ。と声を掛ける私は変人かも知れないが、ゴミを散らかすので、散らかさないようにとも言いました。
しかし、言うことも聞かず、ますます増えてあちらこちらの道路にゴミが引き裂かれてばらまかれ出したのです。
すると、それぞれのゴミ置き場で、ネットを張ったりの対策をはじめました。ところが、そのネットで子供が遊んだりして、危険だ。なんて声も出てきて。
そんなこんなで数週間。ある朝突然カラスの姿が消えました。一体何が有ったのでしょうか。卵が生まれて暖めてる?それだって餌はいる。どこへ消えたのカラス。
小学生や中学生の言葉が凄いなぁ。男も女も変わらない言葉づかい。こんな所にも男女分け隔てなくの教育が行き渡っているのか。と10年ほど前に思ったものでした。
しかし、気付くと私の言葉づかいも凄いものになっていました。昔、腹減った。と言って、いや、お腹が減った。と言ったら、そうじゃないでしょう。お腹が空いたでしょう。と言われたことが有りましたが、まぁ、それもほめられた言葉づかいではないかも。今は減ったは当たり前、食べるが喰うなんて頻繁に出てしまう。普段からの積み重ねで言葉が出来ていくのですよね。恥ずかしい事です。
毎日反省しても、どうも言葉は帰ってこない。もともとがしっかりした言葉使いをしていたわけではないので、その堕落ぶりは自分でも呆れてしまう。子供の事なんて批判できない。
目上の方とお話ししていても、ひょんな事から口から飛び出す言葉。ビデオ再生のようにプレイバックは出来ない。漫画のせりふのように消すことは出来ない。
アチャー、出てしまった。困った。結局その言葉を訂正することなく、止まることなく、気にしているようには見せないふりをしてしまう。そして、次に出す言葉はきちんとしよう。きちんと言えば、さっきの言葉は消されるかも知れない。と、思っているのに、気持ちとは裏腹にどんどんと汚い言葉が出てきてしまう。ああ、言葉が汚い人間として決定してしまう。聞いている方にしても耳障りな事でしょう。
おみえになりました。言われたでしょう。召し上がってましたね。拝見させていただきました。すんなりと丁寧語や敬語を使える人に出会うと、私は文句なく尊敬してしまう。
随分昔に、同僚が突然つくば博のコンパニオンになる。と会社を辞めて数ヶ月の研修後に会ったときにはびっくり。もともと丁寧な言葉づかいだった彼女と話をしたときは、目から鱗。こんな風に話せたら印象がいい。日本の言葉ってこんなにもきれいだったのか。と感激でした。
考えてみれば、きれいな日本語がどんどん消えている。「渡鬼」を見ていると、家庭であんなに丁寧な言葉で話すところが有るのかな。と思うのだが、本当はあれでなければいけないのよね。
謙譲語、尊敬語。その言葉づかい間違っています。なんて本を買ってきて読むと、目や頭では理解しているのですが、それを脳を通って口から出てくると、見事にみにくい言葉になっている。
ああ、どうしたらきれいに言葉が口から出てくるのだろう。ああ、反省の毎日。
チェーン化された喫茶店が多くなってきたと先日書きましたが、チェーン化すると個性がなくなります。どこに行っても同じ味、同じ雰囲気の店になるのですね。どこへ行ってもそれが有るから、ある種の安心なのでしょうか。
コーヒーゼリーが食べたいときはこの店。チョコレートケーキが食べたければこの店。日替わりサービスのコーヒーが有る店。ああ、アオキのココアが飲みたい。一番館のブラジルが飲みたい、こかのロワイヤルの気分。と、その時の自分の精神状態や会う相手によって、昔は、ぴったりの喫茶店を選ぶことが出来たのですね。それが今は、ほとんど出来ない。
たばこの煙、臭いが嫌になってきたので、いつの間にか喫茶店に入る機会がなくなってしまいました。しかし、気付くと禁煙席が作られている店が増えてきたのですね。これはスタバの影響。いいことです。コーヒーは飲みたくてもあの煙がと思っていた人が沢山いたわけですね。
入口で禁煙席有りますか。と聞いている人を何人か見かけたことがあります。ないというと店から出ていく。世の中変わったものです。いい方向に変わっているのですね。それでも、席が有ってもホンの少しだったり、なんと風下だったりもしますが、とにかく一歩前進ですね。
禁煙と言えば、横須賀市の久里浜にもう15年くらい前から、禁煙の喫茶店が有りました。当時、喫茶店と言えば、コーヒーとたばこと思っていたので、とても不思議でした。
喫茶店というのは一服したくて行く人が多いだろうに、そこが禁煙だったらたばこ吸いにとっては悲しい物だろう。 ミスドに入っている女性のほとんどは、ドーナッツが食べたいわけでも、コーヒーが飲みたいわけでもない、と私は思うのです。一服したいから入るのですね。昨今の若い女性のように、そこらに座って吸ったり、歩行たばこなんて飛んでもない。と思っているかどうかはわかりませんが、とにかく少しでも人目を離れた場所でたばこを吸いたいのです。
そんな時代にこの禁煙喫茶、大丈夫かな、やっていけるのかな。と思っていたら、時代を先行していたのですね。まさか禁煙の喫茶店が出てくるとはその時は思いもしませんでした。
そして、今でも健在のようで、先日、知り合いの寿司屋に行くと、そこの喫茶店の話が出ていました。そうかまだ元気なのね。また行ってみたいなぁ。と思ったのです。
全面的に禁煙の喫茶店が増えてきました。これは今の中高校生が当然のように店の中でたばこを吸うことを防ぐことにもなりますね。店の中に大きく未成年者の喫煙お断り。なんて書いてあっても、可愛い顔をした少年がプカプカしているのです。
一昔前ならば、店の人も直接注意したのでしょうが、今の世の中何をされるかわからないから、だったら全面禁煙。としたかどうかはわかりませんが、これはいいことだと思いました。
石川県は金沢に行ったに、たばこ吸えます。と言う看板がある喫茶店が有りました。何でこんな事と不思議に思ったのですが、禁煙の喫茶店をお知らせするのではなく、それが当たり前で、喫煙できることをお知らせするのですね。
喫茶店のあり方も変わってきた物です。もしかしたら、あの消えてしまった喫茶店ももう少し頑張れば無煙者に指示されだのだろうか。
毎日、毎日、殺人だ、殺傷だ、傷害だ。と言うニュースがあまりにも多すぎる。見るに耐えない。
昔から、キレ易い人や、すぐに暴力を振る人はいた。しかし、こんなにも簡単に、こんなにも何気ないことで、むかついた、カットなった言うことで、殺人までをする事はなかったと思う。
若いから我慢が出来ないのかと思っていたが、いい歳をした大人も見境なく人を傷つける。何が日本人をそうさせてしまったのか。
若者のエネルギーを爆発させる事、場所が無いのだと思っていた。バイクで暴走すれば規制され、スポーツやるにはかったるい。有り余ったエネルギーが、簡単に人を傷つけるのだと少し前までは思っていたが、そうではないらしい。根本的に何かが違う。見えないところで、何かがどんどんと変わって行く。
有事法案でも、郵政民営化でも何でもいいけど、もっと日本人の基本的な事を考えないと、日本はダメになる。政治家よ、小泉さんよ、もっと真剣に日本の将来を考えた方がいいと思う。
子供は被害者だと思うのに、大人並の凶暴犯になったからと、少年法を変えるのではなく、そんな子供が増えないようにするためにはどうしたらいいのかを考えるべきです。
厚生労働省が認可したから安全だ。なんて思わないでください。認可しやすい物からしているだけなんですから。認可して欲しい方からの安全データだけで、認可している場合も有るのですから。
エイズにしても、狂牛病にしても政府が認可してもこんな事態なのです。目に見えているものさえ、こんな状態。目に見えない物は将来どうなっていくのか。
政府のやることを信じられなくなっていく。自分の事は自分で守るしかないのだろうか。
20年30年前にはなかった病気や事態がどんどん起きている今は、その時と何がと大きく違うのか。それは食べ物と生活時間帯だと思う。
食品添加物や化学物質にまみれた食べ物を口に入れていたらどうなるのか。食品添加物の多くが世の中に出てきてから何年経ったのだろう。じわりじわりと我々の身体を浸食してきた化学物が今のキレる人間を作ってきたのです。簡単便利を求めてきた代償ですね。
何でもかんでも手にはいる。お腹が空いたらコンビニ行けば何でも手にはいる。しかし、コンビニで食べたお弁当で食中毒になったり、お腹をこわしたりする事有りますか。ないですよね、きっと。
お腹が痛くなったことを保健所に言われれば、すぐに営業停止です。どこの何を食べたかわかるから、わかったところは責任をとらされるのです。
食べたらお腹をこわす、食べたら食中毒になる。すぐに結果が現れる物にはいろいろと対策は立てるけど、長年蓄積して現れる結果はだれのせいだかわからない。
すぐにお腹をこわすと犯人は分かってしまうので、食品を腐らないように防腐剤をたっぷり使う。それで、お腹はこわさないので犯人にはならない。たとえば、それが身体に何らかの影響をして、それを食べた人が時を経て、死のうが殺人をしようが、ガンになろうが、なんの立証もされないのです。犯人にはならないのです。
と、書いていたらなんと、タイムリーにミスドの事件。そんなものなんですよ。今は何を食べさせられているかわからないし、何でもお金で解決しようとする。いったいなんなんでしょう。大人がこんな事をしている世の中です、若者がまっとうに育つわけがない。
昔は「キレれる人」と言うのは、頭がいいとか、回転がいいとかの尊敬の眼差しだったように記憶している。いつから悪い方へと変わってのだろうか。
朝になったら起きる。夜になったら寝る。夜だって10時11時には寝て、12時なんて真夜中だったはず。朝は6時には起きていたのではないだろうか。
夜は遅くまで、テレビだ、ゲームだ、ビデオだ、インターネットだ。とやっている。そして、朝は出勤ギリギリの時間に起きてバタバタと出ていく。時間に余裕なんてない。
小さな子供さえ11時12時まで起きているという。子供は8時には寝るものだと思っていた。子供がちゃんと睡眠時間を取らないので、低体温、低血圧がふえ、風邪をひきやすい、体調を崩しやすい。すぐに疲れる。食べるものも、噛まなくていいものを食べ、青菜、豆は食べない。出来合の総菜ばかりを食べさせられている。
そんな事を繰り返しながら、食品添加物で脳も内臓もじわじわとやられる。そして、キレる人間が出来上がる。子供にべったり世話をしていた親は理由もわからずナイフで刺される。
大人もイライラ、イライラ。やっていいこと悪いことを判断する能力も奪われて、理由もなくイライラに襲われて自分の子供や見知らぬ人を傷つける。
そして、自分も子供もどこかに病気を背負っている。
ああこのままでは日本は壊滅する。すぐに現れる危険ではなく、もっと長い目で人間の生活を考えましょう。食べる事、食べるものの大切さを考えましょう。人間食べることによって身体が出来るのですから、変なものを食べれば変な人間になると思うのです。そして、変な身体になり、変な病気に掛かるのです。
自分の食べるものは自分で料理し、情報やマスコミにだまされない知識を持って生きていきたい。昔のようにキレる人間は、尊敬の目で見られる世の中に戻って欲しい。
ああ、美味しい珈琲が飲みたい。最近はチェーン店ばかり。どこに入ってもこれはと思う珈琲に出会うことがない。なのにどこも混んでいる。特に、あのスタバ。何時行っても席はほとんど満席。満席なのにトランプなんてやっているアベックはなに?
禁煙なので、今までコーヒーは好きだが喫茶店の煙が嫌だという人たちにもうけているのでしょう。店の外の席まで満席。テラス席は喫煙OK。豆に匂うからと禁煙はいいと思うが、どうも私は好きになれない。注文方法がよくわからないって事も有るけど、コーヒーの味は私が求めている物とは違う。でも、煙がないと言うことだけで、入ってしまう場合がある。
私は昔ながらの喫茶店で珈琲が飲みたい。どんどんとチェーン店は増えていくのに、老舗の喫茶店は消えていく。寂しいことです。首都圏では土地代にコーヒー代がついていかないのでしょうか。
久しぶりに横須賀に行って昔よく行った喫茶店の場所に行くと、ほとんどの店が無くなっている。悲しい。やっぱり喫茶店だけで店を維持していくのは大変なんだろう。
新規開拓をしようと思うのだが、老舗の喫茶店や地元の喫茶店と言うのは、どうも入りにくい。店の客は常連さんばかりのようで、よそ者が入っていくとジロリと見られているような気がして仕方ない。それと、妙に店の中が団結していて、新規の客は排他されてしまいそうな雰囲気もある。一度だけそんな思いに勝てば次回は何でもないのだろうが、何の用もないのに1人でコーヒーだけ飲みに入るには勇気がいるのである。
日曜日に散歩をしていたら、新しい店を見つけた。随分と歩いたのでケーキも食べたいと思っていたところに、ケーキ&コーヒー。店の前には、ケーキはなにやら有名なパテシェのところで修行をしたと書いてあり、コーヒーは注文を聞いてから一杯ずつ豆をひいてドリップしますと書いてある。そして、入れ口は季節柄かオープンになっていて入りやすい。私は、これは期待できるかもと思い吸い込まれるように入ったのです。
まだ開店してからそんなにたっていないような初々しい雰囲気。コーヒーはほとんどが350円でお代わりが150円。ケーキは300円台。私はまいるどコーヒーと、チョコレートプディングケーキを注文。確かにコーヒーは豆をひいてから入れていた。しばらくしてやって来たコーヒー。いつものように一口何も入れずに飲んでみる。ちょっとがっかり。せっかく今ひいたまめで入れたのに、その効果がないような味。こんな場合はミルクを入れる。これで少しはよくなる。しかし、そのミルクがショック。パックに入ったなんとかホワイト。常温で保存できるこのミルク、私は大嫌い。コーヒー屋だったら、このミルクは止めて欲しい。このミルクだったら牛乳の方がまだいい。そういえば、スタバもこのミルクね。やっぱりコストかな。
昔々、鵠沼の鴫立亭に初めて入ったとき、コーヒー500円、ケーキ500円。にはびっくりしたが、おいしさにはもっとびっくりした。当時、喫茶店でのコーヒーは300円が相場だったと思う。今では500円600円のコーヒーはざらにある。ざらにあるけど、おいしさに匹敵するコーヒーはなかなかない。
期待しないで入ったところのコーヒーが美味しいとびっくりする。このGwの旅で高知にはなぜか沢山の喫茶店が沿道に目立っていたけど、お昼を食べに入った道の駅レストランのコーヒーも美味しかった。
京都は嵯峨野のペンションのウェルカムドリンクも美味しかった。人生のうちで何度これはと思うコーヒーに出会えるのだろうか。
今日は折り梅という映画を見てきました。見てよかった。やっぱり映画っていいな。このような映画を見ると邦画がんばれ。と言いたくなる。
GWに入った日に商店街の隅の小さい映画案内板に貼ってあった映画のちらしを見つけて、直感的に見たい。と思ったのです。しかし、一日一度しかやらないのです。日曜も平日も午前中一度だけの上映。
帰ってきてから、ウェブでその映画のページを見つけて、ますます見たくなったのです。今週末は夫はまたまた1人で渡道。私ひとりで、ちまちま家事をしているのも何なので、思い出したように行ってきたのです。
はじめに通りからのぞいたときはひっそりとしていた映画館前、まだ時間が有るので、買い物をしてから再び行くと、なんとチケット売場に人が並んでいる。あらら。なんでこんなに並んでいるのだろう。この映画はそんなに人気が有るのかしら。と思いながらか私も並んだのでした。
前の人たちはみんなシニアのチケット。知りませんでしたが、シニアは1000円なんですね。私は一般1700円。入ってすぐにもぎりおねいさん。その向こうがもうドア。入ってびっくり、10列もない。一番後ろに座っても首が痛くなりそうな狭さ。あれだけ並んでいたから、さぞかし中は混んでいるのかとおもったら、半分ぐらい。しかし、始まる頃にはずいぶんな人数が座っていたようです。おじさん達も結構いましたね。
席は前も狭くて、足を組むのも大変。頸椎椎間板症の私は上を向き続けるのは辛い。なるべく寝そべって見ようとするのだが、足は前には行かない。こんな格好で2時間見ていたら、エコノミー症候群になってしまいそうだ。
同じ1700円で、こんなにも環境が違うのはなんで。と思ってしまう。リラックスして席に座れ、音響も言うことナシと言う場所も有れば、今日のように狭くて、音響も音が出ればいいか。と言う感じ。今日の場合は少し割引が有っていいんじゃないのかしらと思うほど。でも、この映画をかけてくれるだけいいのかな。このような所じゃないとやってくれないのだろうか。こんな事をしているから、日本の映画界が衰退して行くんじゃないのかな。いい映画を作っている人たちは沢山いるのに、それが沢山の人たちに見せることが出来ないんじゃないだろうか。
歩いて数分の所に小さい映画館が何軒も有る場所に住んでする私は幸せかな。昔は時間が有れば、ちょうど時間のいい映画を見たものです。突然なんの前知識がなく入っても、とてつもなくいい映画に出会えるときも有るのですね。しかし、今は時間つぶしに入るには高すぎる料金。最近は映画にはご無沙汰していたけど、久しぶりに映画に目覚めてしまいそうだ。レディースディか。それもいいね。
映画は環境の変化から痴呆症になってしまったお姑と嫁の話。姑役の吉行和子には、感銘してしまった。原田美枝子もちらしでは永島英子かと思うほどだったけど、演技も昔と比べたらなんかよくなった。何がどう変わったのかわからないけど。夫役のトミーズ雅ってこんな事も出来たんですね。って感じ。鶴間エリ、リリィ、加藤登紀子。周りの人たちも味のある人ばかり。
内容が内容なのに、変にジメジメしていなくて、よかったですね。確かに涙が出てしまう場所が何カ所か有るのですが、世代によって泣くところが違うのがはっきりわかるのです。私は嫁の立場で泣き、隣の知らないおばさんは姑の立場で泣いていました。映画が終わってドアを開けるとそこは外。普通だったら、涙を拭くくらいの時間が有るのに、ここはあまりにも外が近すぎて、みんな目が赤かったですね。
こんなにいい映画のに、作るのには大変だったようです。映画を作るのに市民運動を起こしたり、資金集めに苦労したり、名もない人が映画を作るのは大変なんですね。この女性監督2作目なんですが、名前だけは私は知っていました。
地元の人たちの応援がすごいようでしたが、私の好きな犬山もロケーション地だったようで、なおさら思いが入ってしまいました。
どうも、商業ベースに乗った映画は昔からあんまり好きじゃなかった。宣伝が多ければ多いほど、作品の出来が反比例するような気がしていた。大金を掛けて作ってみたものの、出来が今ひとつで、宣伝して集客しようとしている。としか思えないのです。確かに、それだけではなく、本当にいい映画は有りますよね。千と千尋もよかったですが。
こんな映画にもっとガンバってもらいたい。いや、応援したいですね。私は邦画か大好きなんです。しかし、全面的に宣伝をする訳じゃなく、メディアに取り上げられる訳でもなく、上映される映画をキャッチするのは難しい。もっと沢山いい映画を見たいと思う私です。今日はなかなかいい休日だった。